私流~子育て教育概論

ポポロこと・・・ 堀内治美
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 コラム「一緒に生きている」生き物の気配2011/7/20
 コラム「ママの健康」2011/6/6
 コラム「心のシーソーバランス」2011/5/1
コラム「普通のようちえんって・・・?」2011/1/26
 コラム「ブーム」2010/12/22
 コラム「丁寧な暮らし」2010/10/13
 コラム「ごっこ遊びと森の遊び」2010/9/06
 コラム 「ミラーニューロン・見つめる効力」2010/06/07

 「働くということ」役に立つということ・一人ではできないチームアクショ2010/05/07
 「生」を食する  2010/4/27
 卒園の涙   2010/3/5
お客様(講師)とのふれあい 2010/1/14 2011/5/9改版
冬・こどもがこどもに伝えること 2009/12/14
こども達が大きく成長する後半をむかえるにあたって 2009/10/14
家族を考える2009/09/18

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ラム「一緒に生きている」生き物の気配


2011/7/20 堀内 治美
 私たちは日々、森で遊びながら「生き物の気配」を感じることができます。しかし、会えることはほとんどありません。
トンビ、カラス、カモ、猿、昆虫はこども達も出会いやすく、姿を見ることのできる生き物たちです。
蛇は年に1~2回暑い日に多く姿を見かけます。すぐに隠れてしまいます。
リスは5年の間に1回あえました。動きが素早く、木から木へと渡って行って、あっという間に見えなくなってしまいました。


鳴き声
 蝉をはじめとする虫の声、鳥達の様々な鳴き声は木の葉の揺らぐ音とともに、いつも私達を取り囲んでいます。
 鹿の声は、1度お泊まり保育の朝聞くことができました。「くっうぇ~ん」と近くで鳴き、姿を見つけようと追いかけると、3回鳴き声を聞く間に距離が遠のいていく感じを残し、消えて行きました。
 猪の声は一回聞いたことがあります。ぬたばの近くで「どおぅ~どおぅ」と轟くように聞こえてきました。そっと耳を澄まさなければ聞き逃した声です。少し恐ろしげな声に、こども達は皆で手をつないで教室まで帰りました。



 早くも猛暑となった今年の7月8日、「子育て支援森で遊ぼう」の親子に「イノシシのお風呂を見に行こうね。」「鹿も水を飲みにくるよ。」と話すと、こども達はワクワクしながら、歩きはじめました。鹿の糞、リスの食べた松ぼっくり(エビフライ)を見つけながらぬたばへ・・・。ぬたばの冷たい水を触り、いつもイノシシがからだをこすりつける松の木を見ると、暑さのせいで樹液がいつもに増して流れ出ていました。そしてそこにはイノシシの毛が沢山ついていました。こんなに多くの毛が残っているのは私も初めてです。樹液の多くベタベタト貼りつきやすかったようです。また、猪が身づくろいに来たのも、きっと昨夜から今朝までの事だったのでしょう。
 鳴き声を聞き、毛を見つけても、未だにその姿は見たことがありません。



 鳥の羽を時々見つけます。つややかで美しく、バランスのとれた形に感心する「素敵な落し物」です。
 また、フクロウなど猛禽類の餌食にされたであろう小鳥の羽や羽毛が、一か所に散乱している場面に出くわすことがあります。その必死に逃げる様子を想像すると、かわいそうな気持ちになります。
 そして、今年はそのフクロウの羽を良く見かけます。みんなが遊ぶ森の近くに巣を構えたのでしょうか?フクロウの羽は茶色で白い斑点模様がついています。羽の骨は一見プラスティックのようにすべすべしていて、切ってみると空洞になっていました。空を飛ぶための軽量化ができていることに感心しました。(空を飛ぶ鳥は体の骨も空洞になっています。)こども達は「空を飛ぶ」という事にしばし様々な想像を巡らせたでしょう。
自然の世界では美しさと、生きるための激しさは、表裏の関係で存在しているように感じました。


糞・食べた痕跡
 ぬたばの周辺には動物の糞が沢山落ちています。糞が落ちている近くには、動物たちが食べている草が生えています。
 ウサギは前歯ですっぱりと斜めに若い枝を噛み切った跡を残します。その近くに落ちている糞は、こどもの指先位の大きさから、大人の人差し指の大きさの、まん丸く繊維質の多めの黄緑の糞です。数個まとめてフイルムケースに入れ、そっと匂いを嗅いでみると、茶葉のような香りがします。
 鹿の糞は数ヵ所に、30~100個くらい大量に見つかります。楕円体の「お菓子のチョコボール」に良く似た、黒に近いこげ茶の糞です。つややかで良く消化された糞です。こちらも匂いは草や枯れ草の匂いで、一般的な「便・臭い」という感じしません。
 ぬたばと裏山には、大きな松の木の下に、沢山の「エビフライ」が落ちています。リスが松ぼっくりを食べ、残りの芯を木の下に落しているのです。それは、1~1.5㎝のエビフライのミニチュア状態で実に可愛いものです。こども達にとって「松ぼっくりのエビフライ」は、「リスと一緒に森で暮らしている」と感じる大切な宝物です。


クワの実
 7月初旬から中旬、森のあちらこちらにクワの実がなっていました。鮮やかな紅色、紫色、甘酸っぱい味にこども達も大喜び、つまんで食べるのが楽しみでした。棘(とげ)があり、上手く手の届かない葉陰の実を恨めしそうに眺める瞳が可愛いものです。そして、「あまり沢山は食べないようにしようね。あなたのお腹が痛くなってしまうかもしれないし、友達も味見したいね。」そして、「これは森の動物たちの大切な食べ物だね。」「みんなのご飯は店屋さんで材料を買ったりできるけど、森の生き物は森にあるものを自分で見つけて食べるのだね。とっておいてあげようか?」と同じ森で暮らす、自分たち以外の生き物と、一緒に生きている事(共生)を感じるきっかになってきました。


足跡
 雪が降ったばかりの朝には、くっきりと鹿や猪、ウサギの足跡をみつけることができます。それをきっかけに、獣道の場所を知り、獣道をたどり、夜行性の動物達の動きを想像してきました。夏場は雨の後、水たまり近くの泥に、猪の爪後を見つけることができます。


鹿の角
 2年前の夏、隣山への通り道を下刈りしていたら、立派な鹿の角が見つかりました。翌日こども達に鹿の角を見せると、驚き、喜び、手に持った重さを感じる人、怖がって触れることができずじっと見る人・・・様々でした。鹿の角の大きさに驚いている様子から・・・「そうか3~6歳のこども達には鹿の大きさがイメージできていなかったのだ」と改めて気づきました。
「鹿の角は、何本?」「2本。」「じゃもう一本、あるかもしれないね?」と、こども達と再び下刈りした道から隣の山へ向かって行ったら、なんと本当にもう一本が見つかりました。これは必然なのか?偶然なのか?気持ちが高ぶる出来事でした。


死骸
 森で5年近く過ごすうちには、昆虫をはじめ様々な生き物の死骸に出会いました。「死」とはこどもの中にどのように意識されているのでしょうか?
3~6歳のこどもにとって、「死」=「悲しい」となるには、その前に「愛おしい時間」が必要だと思います。
愛おしい(好きだ)と思って接していた者(物)が動かなくなってしまう、声をださなくなってしまった時「どうしよう?!」と困る感覚がなければ、「悲しい」という感情は理解が及ばないのではないでしょうか?こども達がそれらを受け止め記憶できるのは、4・5歳以降でしょうか?また、未知の事をイメージすること、特に感情を重ね合わせることは、この年齢のこどもには大きく個人差が現れます。「死」はこどもによって感じ方が違うのです。

 しかし、森で目の前に現れる「死骸」は、現実にそこに存在する「死」そのものです。

 鳴き終えた蝉の死骸を蟻が運び始めているところに出会うことがたびたびありました。「土に埋めてあげよう。」という人がいました。そうすることにしました。
またある日は「蟻(あり)のえさなのだから、蟻にあげよう。」という人がいました。そうしてみました。しばらくしてもう一度蝉の死骸を見に行くと、細かくちひられた跡があり、ほとんどの部分はそこにはありませんでした。
「土に埋める」のは、人の世界の慈しみです。これはもちろん大切なことです。「蟻のえさ」は自然の世界では当たり前のことであり、自然の一部である人間は、忘れはいけない目線です。
この二つの難しい哲学を幼いこども達と論ずること自体が「天からの恵み」でしょう。それぞれの大人が、自己の死生観でこども達とかかわることしかなく、結論はありません。

 昆虫と違い、モグラやムササビの「死」と出会ったこども達はまた違った衝撃がありました。堅くなり始めた動かない動物に「どうしたの?!」と思っている瞳の動きと反対に、言葉は少なくなっています。
動かなくなった小動物は、いつもけして見ることのできない歯や爪を間近で見ることができ、そっと触ることもできます。
ムササビの飛膜を広げてみることができました。図鑑で学ぶよりも見て触って感じる事の出来ることは、とても貴重なことです。こども達への印象の残り方も格段に違うでしょう。
 小動物の死骸はそのままにしておく事は、なかなかできません。「土に埋める。土に還す。」となることが自然です。そして、数日の間その埋めたところ気にかかるこども達がいます。忘れたころ「あそこにムササビが埋めてあるね。」と話しだすこどもに、「死」への慈しみの始まりを感じます。

そんな日々の中、今年の6月に、衝撃的な「死」にであいました。大人なら目をそむけずにはいられない悲惨なその「死」は、こども達にはどう映ったでしょうか?

 開園以来、毎年こども達の前に現れる蛙がいます。
今年は蛙を3~4匹、回数も多く見かけました。今までの4~5倍の頻度でしょう。
ある日ぴょこぴょこ跳ねる小さめの蛙を追いかけて遊んでいるうちに、瀕死状態の大きめの蛙(体が大人の拳位)を見つけました。
その姿は、腹をすっかり食いちぎられ、腸や内臓があふれ出て、足は片方ありません。それでも目が少し動いているのです。言葉を失いました。泣きだして後ずさりする子もいました。
「どうしてこんな姿になっているの?」から、いろいろ思いつくまま話を展開するうちに「一体誰に食われたのか?」「逃げようとしたのか?」「なぜ全部食べなかったのか?」何より「こんなからだで、なぜ目が動いているのか?生きているのか?」と沢山の疑問がわき上がりました。
蛙がすっかり動かなくなった後、木の陰に土を掘り埋めました。
もしかしたら、蛇が蛙をしとめたところに私たちがやってきて、蛇はあわてて逃げたのではないでしょうか? それも見ることのできない生き物の気配です。

 残酷な様子を見せない方がいいと考える大人もいるでしょう。
ただこれも、「自然」なのです。私たちの暮らしている地球で、長い年月にわたり繰り広げられている「自然の営み」一つなのです。
一日で教えられることはありません。日々こども達と、一緒に自然を受け止めとめていくことを繰り返すのです。
森の生き物たちは、こうして、それぞれの生きざまを垣間見せてくれます。その多くは「気配」であり、実際に生き物たちと顔を合わすことは、ほとんどありません。



 そんな森の仲間たちの為に、私たちは「森の土産バック」を考えました。
例えば森の木の実や木の葉を、教室や家にもち帰りたい時、ちょっと森の仲間の事を考え、小さなビニールポーチに入る量だけにするのです。ドングリは森の仲間の大切な食べ物です。木の葉も森の虫たちのベットになり、いずれは土になる大切なものです。花も蜜を吸う昆虫の仕事場です。

見えない仲間に気遣う気持ちを持つことは、3~6歳のこどもが理解できる内容で、「人間も自然の中の一部」という謙虚な気持ちを、根付かせていく大切なことだと思います。

見えない森の仲間と同じく、遠くにいる家族、近くにいても生活リズム違う家族も、大人の目線をこどもの感性に合わせ、接点を見つけていきませんか?
「おじちゃん達の町も暑いかな?」「お水たくさん飲んでいるかな?」「お父さんの仕事場も蝉の声聞こえるかな?」「今度会ったら聞いてみようね。」と多くの時間を一緒に過ごすことはできないかもしれないけれど、お互いに気遣うことで気持ちを繋げてけるといいですね。
みなさんがいるから、自分がいることを、「感じている」日々でありたいと思います。


 同じ時代を生きているこども達へも同じです。
もう少し年齢が進んできたならば、2011年3月11日の東日本大震災で、被害にあわれた多くのこども達へ、世界の同じ時代を生きているこども達へ、幼い心で、同じ地上の仲間として、慈しみを感じられるようになっていってほしいと願っています。
それには、自然の中で遊びながら、日々培われている「森の見えない仲間達を想像する力」が、発揮されていくことでしょう。
 私達保育者や身近な大人は、根気よくこどもに寄り添い、知識を教え込むことをあせらない「こどもへの共感」を重ねていく存在でありたいと思います。


「心が育つ」ということは、経験が幾重にも重なり、深くなり、無意識(体・感覚)の中に刻まれる事なのだとおもいます。





コラム「ママの健康」
2011/6/6 堀内 治美
 こどもの体調が悪くなると、食事・排せつ・睡眠など病院にかからない程度の場合でも何かと気を使いますね。また、熱がある時などは、なおのことママは気が張ります。小さなこどもが元気なく、ぐったりしている姿は本当にかわいそうですものね。
そして、こどもの体調が戻るころ、ママが体調を崩す…なんてことが少なからずあります。また、妊娠や出産後の体調、個人で持つ持病や、アレルギーなど、日々の暮らしは「幸せな」ながらも、体の不調はそれぞれあります。
そして、つい「こどもの為・・・家族の為・・・」と無理をしがちなのが、母親ですね。でも、ママ(もちろんパパも・・・)の体は半分こどもの物と考え人一倍大切にしていて欲しいと考えています。

 ここからはぜひ、パパにも読んでいただいてください。
ママが風邪のようだな?と感じたら、早めの受診、休養。
疲れたな、と思ったら外食にしたり、早めに布団でごろごろしたりする。
気が滅入るな、と思ったら、一人で美容室に出かけたり、こどもはパパにお任せして、友達と食事に出かけたりする。

 さて、今挙げたことは、無理でしょうか?・・・いえいえ、大丈夫!
ただ、この実現にはやはり頼れる人が必要です。もちろん第一候補はパパですね。
パパだって、笑顔のママが一番いでしょう?だって好きだから結婚したのでしょう?!
続いて、祖父母や友達も、頼れる人になるでしょう。そして、ようちえんにこどもを預けている間に病院・美容院・気晴らしランチは一番良いですね。
特に体調が悪い時は、仕事と子育て、家事など、それぞれのスタンツで「申し訳ない」という気持ちにあまり縛られず、できたら「当然の権利」といくらいの気持ちで、休んで欲しいです。
こどもは大切です。同じくらいにママ自身の健康や気持ちを大切にしていきましょう。
これは「わがまま」ではないのです。なぜなら、あなた(ママ)の体の半分は、こどもの為に存在しているのですから・・・。
その上、いつの日かこどもが巣立った時、あなた自身の人生を歩む健康があれば最高ですね。
やはり健康第一!


①健診に進んでいきましょう。②散歩に出かけましょう。心身共にリフレッシュし、癒されます。そして何より③良く寝て、④良く食べましょう。おいしいことは健康の証拠(あかし)です。


 私も頑張りすぎてしまう母親だったかもしれません。もしかしたら、今も頑張りすぎているかもしれません。日々立ちどまり、自分を甘やかすように、友達と出かけたり、嫌な事は考えないようにドラマに夢中なったり、自宅で温泉気分に浸る時間を作らせてもらっています。

 ちょっと昔のある出来事が、私の考え方に大きな変化をもたらしました。
それは13年前二男を出産した際、二男は生まれながらに手術が必要な身体でした。出生後すぐNICUに入り、授乳は一切できませんでした。二男は点滴のみで3週間ほど過ごしたからです。もちろん搾乳をして、母乳を保管しておきました。でも、他の産婦さんに比べると、淋しさは沢山・・・その代わりに産後の体は、夜の十分な睡眠と、マイペースで搾乳する生活で、順調に回復していきました。その後も、二男はNICUに入院したまま、私だけ退院し、長男の待つ実家へ帰りました。長男の出産の時に比べ、産後の回復は良く、二男が退院できた生後一か月のころには、すっかり気力・体力充実した状態でした。
 家族4人でクリスマスから正月を過ごすことができました。それまでの病院の規則正しい生活のおかげか、リズムよくミルク・母乳を欲しがる二男は、良く寝てくれました。しかし、平和な日々が続いたのは、たった3週間でした。腸閉塞の為、再入院後、再手術・・・・今度はNICUではなく外科病棟にある一室、こども専用の病室でした。付き添いができたことが先の入院よりも良かった事です。(再び淋しい思いをさせてしまう長男はかわいそうでしたが、義母・実母・主人に任せました)
その病室には心臓に障害のある6歳の男の子A君、3回目の手術でした。ダウン症のMさん10歳は、腹膜炎とともに、腸壁に小さな穴が見つかり手術となったそうです。
生後4カ月のNさんは幽門狭窄の手術後、自宅で普通の暮らしをしていたところ、私の二男と同じく術後の腸閉塞になった時に、全身状態が非常に悪くなり、脳に障害が残ったそうです。
一か月の間には、急性の腸閉塞で手術をするこどもや、脱腸の手術をするために入院してくる5~6歳のこどもが数人いました。
 一日中、寝食を共にし、お互いに助け合う日々、わずかな回復を喜びあい、時には見えない未来の不安を話す事もありました。また、離れたところのある小児科の病棟では、生まれてから家に帰ることもできないこどもや、何度も入退院を繰り返し、兄弟にもめったに会えないこどもいました。私たち付き添いの者は、お互いの菌の交流を防ぐために病棟を行き来することはできるだけしませんでした。
 
 ある日、私はうっかり、インフルエンザにかかってしまいました。病院でしたので、すぐに点滴をして体調の回復を図りましたが、辛かった高熱と関節の痛みでした。その時に「私たちのような、病気や障害のあるこどもを持つ親は、人一倍、自分を大切にしなければだめよ。頼れる人には頼り、休めるときには休む・・・それがこどもを育てていくために大切なことなのよ。」とA君のお母さんに言われました。
 
A君のお母さんも小児科病棟にいたころ、あるお母さんそのように声をかけられ、肩の重い荷物を降ろすことができたそうです。

 この入院生活中で、同じ病棟のこども達とお母さんたちの生き様や家族の在り方から、それぞれの家族に合わせた「幸せの作り方」という目線を、教えていただけた気がします。
その中でも大切なことは、「こどもの為に、母親は健康でいた方が良い。病気があったとしても、良く健康管理し、とにかく疲れたら休む、気晴らしを心がける、頼れる人には頼り、生き生きとこどもに接すること。」で、普段の暮らしから心がけることですね。

 障害を持つこどもさんのお母さん・お父さんは、生涯をこどもと歩む心づもりで、自分を大切にしていました。それでも、先に自分の命が終わるのは仕方のないことかもしれないと話されていました。人生はわかりません。

 私は13年前のあの頃から、何かこの人たちの手助けけができないかと、模索し始めました。そして、私を励ましてくれた方への直接の恩返しには、ならないかもしれませんが、身近な誰かの手助けを、生涯通してゆっくりしていきたいと思いました。
その一つとして、幼稚園教諭の資格よりも、保育士の方が直接的に、手助けができると思い11年前に取得しました。
 
 今は休日の空いた時間に、子育てサークル(下記参照※)の手伝いをしています。
その内容は、発達や障害に合わせた専門機関の紹介、モンテッソーリメソッドを加えた、障害やこどものクセ・個性に合わせた遊びを、こどもたちと親御さんに提供し一緒に楽しむこと、そして、一人の母として、保育士として、答えを出す相談ではなく、希望を見つける相談相手になれるように心がけています。


これは、めぐりあわせを下さった神様(運命)への、私からの「恩返し」です。




 ※子育てサークル「陽だまり」は様々な障害を持つこどもや、ちょっと気になるこどもと、その親御さんが、親子一緒に遊びに来たり、親御さんだけで参加して気分のリフレッシができる、安心して集える子育てサークルです。
「何かこどもの育ちが気になる」、「こどもの行動に困ってしまう時がある」「祖母・祖父と考え方が合わなくて不安」・・・・自分の子育てに不安を感じ、専門家に相談する前に、ちょっと誰かに聞いてみたいと考えたことはありませんか?
個性豊かなこどもの育ちを応援してきた仲間(保育士・福祉士・ボランティア)や、障害の有無にかかわらず、子育て中の親御さんと一緒に、たまにはゆったり・・・お茶を飲みながら・・・気持ちを開放しあう時間を提供します。ボランティア数名がお子さんの遊び相手をし、こどもたちにとってもふれあいの場になることも望んでいます。


コラム「心のシーソーバランス」


2011/5/1 堀内 治美
 年少さんが森を歩く姿を「奇蹟」のように感じます。あまりに小さく思えてしまうのですが、みなさんはいかがでしょう?3歳くらいで小さな社会にデビューすると、泣きたいときは泣いたり、教師の「いない・いないばぁ」に思わず笑ってしまったりと、気持ちの成長段階ではちょうどいいとタイミングだと感じます。

 可愛いものです。お母様との別れが悲しい泣き声・・・本当に愛おしい・・・そんな時、こどもを抱きしめて、このまま家に帰りたいような気持になりますね。そして「ようちえんは明日からにしようか?」なんて考えたりもします。親として揺らぐ気持ちを持たず、こどもの旅立ちを見送ることはなかなかできないでしょう。揺らぎながらも、「こどもは旅立とうとしている。家に帰ってきたら、沢山抱いてあげよう、温めてあげよう。」という心の支柱を持っていただけることが一番大切なことだと思います。それはこどもの存在をそのまめ受け止め、「大丈夫、そのままで大丈夫。」という気持ちの上に立つしっかりとした支柱です。

トルコでは男の子も13歳まで母親と一緒に寝ると云われています。それにより、大家族を大切にする気持が育つと考えられているそうです。一方、乳児のときからベビーベットにモニターを設置して別の部屋で寝かす文化を持つ国もあります。自立心を育てるためですね。どちらにしても、コンセプをトしっかりと理解していることが必要です。親のその気持ちと、行動が揺らいだら、かわいそうな思いをするのはこどもになります。

 ようちえんに通い始めたこどもの心は「ママと一緒にいたい。」「ようちえんは面白い。」「ともだちにはすごく惹かれる。」・・・と揺らぎます。だから「いっその事、ママが一緒にようちえんにきてくれればいいのに・・・。」と純粋に考えます。可愛いですね。

 余談ですが、今15歳の息子①が小学校2年生頃、温泉の女風呂に入るのが気恥ずかしくなりました。でも、いつものように母親に髪を洗ってもらい、一緒に楽しい話をしながら入りたい・・・そこで息子①は「お母さんが男湯にきてよ!」と懇願しました。「なるほど!!」とは思いましたが、「それは出来ないかな?お母さんも君と同じくらい恥ずかしい気持ちがあるからね。」と伝えました。その日から温泉では男風呂に入る息子①でした。息子②は「にいにと遊ぶ!」と早くから男風呂に行くので、私は寂しいけれどもゆっくり、リラックスタイムとなりました。懐かしく、甘い思い出です。

こどものシーソーの支柱になっている事を、お母様、お父様の心にしっかり留めておきましょう。私たち親もまだまだ未熟な人間です。悩むことも揺らぐこともあります。ただ、こどもは意識せずに頼っています。こどもに向かう「親」の部分は家族で話し合った基本線をしっかり見極め、どっしりした支柱であって欲しいです。

 習い事を一つの例として考えてみましょう。現在バンビーノに通われている家庭ではあまり習い事をされていません。きっと、沢山森を歩き、教室でたっぷり遊び、さらに友達と夕方も遊びたいという、こども達だからでしょうね。
それでも周りの勧めや、こどもの「何でもやってみたい気持ち」をくみ取り、いくつか習い事選択していく時期も来るでしょう。また、それ以上に「わが子にはこれが合っている。」「きっと将来は才能を発揮する。」と感じ、何かを始められることも子育てを楽しみ、こどもの芽を伸ばす大切な視線です。大人になるまで続けなくてもいいものもありますし、幼い頃だから楽しめることもあります。
何か習い事を始めてしばらくたった時、園生活が疲れる(園が無気力な時間になる)ようなら、習い事始める時期が早かったのか、その子の個性に合っていないかもしれないと検証してみてください。そして、早くからあきらめてしまう前に、こどもの体力・気力がうまく配分できるように暮らしの時間を調整することも考えましょう。家庭のしっかりとした考えと、親としてどこに支点を置き、こどもの主となる生活(家庭とようちえん)が潤滑に行えるか、バランスを取ってみましょう。

また、先輩ママの意見、たまにこどもと接する人の意見も、大学の先生のお話も、子育てには参考になるでしょう。それらの多くは一般論を含めた育ちの方向性です。そのまま鵜呑みにすることには「心にブレーキ」をかけ、自分のこども・子育てに合う部分があるかを、ひと時考えてみましょう。

子育てという輝かしい時期の主役は「こどもとあなたと家族」です。

そして、私たち教師は毎日の長い時間(こどもが起きて、活動している時間のほぼ半分)をお預かりしている、子育てチームの一員です。

 モンテッソーリの「敏感期」は「この年齢のときにこういう刺激(遊び)を与えたほうがいい」とういう考えではありません。モンテッソーリはこどもをよく観察することを第一にし、そのこどもの欲求と成長に合った遊びを選べるようにすることを基本としています。その視線で、暮らしから遊びまで、こどもの育ちを見守り、援助しています。私たちには遠慮をしないでください。ズバズバ疑問をぶつけてください。そして、あなた(お母様・家族)の支柱のある場所を伝えてください。うまくバランスが取れないときは、ちょうどよくなるところを一緒に探しましょう。
こどもにとっていいバランスを見つけられれば、「働くママ」「趣味を楽しむママ」「自分の夢に向い、今を生きるママ」として自らの人生も楽しんでいく余裕が生まれるでしょう。

私もまだまだ親としてしっかりバランスが取れる位置にいるか、不安なときもあります。バランスを崩すこともあり、こどもを2~3日主人に任せて仕事(遊び?)に集中してしまうときもあります。
また、15歳と12歳の息子たちは自分の支柱を持つようになっていて、私はその補助的な支えになりつつあります。淋しいと感じるのは私のわがままであって、これが親離れなのだと「あきらめ」「受け止め」「干渉をさけるよう」に、日々自分に言い聞かせる毎日です。

 子育ては一人では出来ません。家族で一緒に出来なければ、そこでまたバランスを失ってしまいますね。祖父母様もきっと力になってくれるでしょう。ちょうどいいバランスをこどもに考え、ちょうどいいバランスで助け合っていけるように、こどもや家族の状況をそのまま受け止め、どっしり構えていきましょう。


2011/5/1
堀内 治美



コラム
「普通のようちえんって・・・?」



2011/1/26 堀内 治美

お時間ある時にのんびり読んでくださいね。
寒さ厳しい冬ですね。この季節をもっと楽しめるように、雪が降ってくれることを願う毎日です。

Fujiこどもの家 バンビーノの森も4回目の冬です。卒園児も3期となりました。嬉しい限りです。この機会に、私たちの園について、一般的な幼児教育機関や幼児教育の基本から振り返ってみたと思います。堅い話でごめんなさいね。でも、いつもお願いしているように、3年の短い時間ですが、尊いお子様を「一緒に育てている」仲間として、知っていただきたいと思っています。

2007年のちょうど今頃、バンビーノ仕事を始めるお話をいただきました。
お仕事させていただくかどうか、考えているうちに、イメージが生まれ始め、もしうまく活動できれば「こどもが幸せな毎日が送れる、夢のようちえん」だと思いました。そして、自分のHPに「夢のようちえん」とリンクを張ったのを遠い過去のように思い出します。
けれど、こどもを主体として考えると、「普通の幼稚園・保育所」と大きく変わっている点はそうありません。
手法が違うと言った方がいいでしょう。

普通の幼稚園・保育所とひとくくりにすることは、大変失礼なことです。
どの園も確固たる教育・保育理念があります。伝統や、新しいものを積極的に取り入れる意欲をもっている園も多いです。
そして、現場では「こどもの最善の福祉」を考えて教育・保育(以下まとめて保育)にあたる幼稚園教諭・保育士(以下双方含め保育者)の方がいます。

このことを踏まえた上で、バンビーノを考えてみませんか?

*************************

 以下が一般的な幼稚園・保育所の一日の流れです。皆さんも入園前他園を検討した際などに、WEBや資料等でご存じとは思いますが・・・・

通常9時くらいから順次登園
10時にお集まり・朝の会
10時半から11時半を目安にその日の主活動
12時昼食
午後自由遊び(室外・室内)・または短い集団活動
14時から降園
という流れが一般的な幼稚園です。
※保育所は午後に昼寝が入り
15時ころおやつ
16時から降園
双方今の時代ニーズに合わせて延長保育を設定している園も増えています。

 空き時間というと失礼ですが、活動や生活の合間・登降園時間差の合間に、園庭や室内で自由に遊びます。
 主活動とは、園目標を目指して、年間・学期・月・週と計画を細分化したこどもの楽しめる活動(成長・季節・興味に合った活動)のことです。学校の授業のようにきっちりとしているものではなく、こどもが「経験」することに主眼を置いています。(学校でも教科や先生のとる教育手法によって経験・参加型も増えていますね。)
・・・・・・・ここまではベーシックなお話です。

こどもの精神的体力的に最も充実している午前の時間にあてた、「主活動」は「導入」という過程で保育者が活動に興味を持たせ、意欲を掻き立てます。そして皆で作ったり、体を動かしたり、踊ったり、していきます。
制作に偏りがちなのが現状ではないでしょうか?結果が明らかな経験でもあるからですね。結果が明らかだと安心する保護者が多いのも事実です。

 保育者の側からこれを考えると「導入」で、「いかにこどもの心をつかみ一つの方向に向けるか?」が、大切なポイントになります。また、一度に同じことを行うための人数分の教材の準備や、事前研究は必須事項です。

 こども側から考えましょう。
「先生が今日は何をしてくれるだろう?」期待します。そして、「わ~面白そう!」「やってみたい」と思います。保育者の話を聞き、「さあ・・・自分の番だ!」と活動に入ります。これはこれでうまくいく場合、こどもの心は大変充足されることでしょう。また、その許容範囲内で自己を発揮して個性を出す工夫をしていくでしょう。
「先生やっていい?」→「みなさんどうぞ。」の関係です。だから、ついつい保育者のオピニオンを求めることが多くなります。保育者も個別に「いいわよ。」と言って行くにはこどもが20~30人の場合は不可能に近いので「みなさん、さあどうぞ!」と声をかけるようになりますね。

 時には「僕わからない」「それは苦手だ」「今日はしたくない」「こわい」と言うこどももいます。
許容力のある保育者ならその子の気持ちを受け止め強要はしないでしょう。自分たちの保育理念に基づいた、こどものための保育(教育的効果)を、かわいいこの子にも与えていくにはどうすべきか考え、さらに集団の導入、個別の声かけを工夫していくことが、保育者の永遠の課題です。それが保育者の職業意識であり愛情です。
この保育者の気持ちを保護者に理解していただける信頼関係がなければ、「うちの子だけしていない。」「無理にさせられた。」と誤解を招きます。

私を含め世の保育者はもう気づいています。そして、多くの保護者も気づいています。
「結果よりも過程」だと・・・
過程を楽しむ、工夫する、挑戦することが必要で、制作以外にも、こどもの育ちの過程で、経験すべきことは沢山あります。大人から見えるいい成果(結果のあるもの)が、いい保育とは限らないのです。

 最近自由保育の形態をとる園も多くなりました。自由保育とはこどもがしたいことを自己選択できる環境準備が必要になります。そして、ある時間帯はこどもがしたいことをするのです。しかし、暮らしを共有している園生活では食事など皆で歩調を合わせなければならないこと、登園や迎えの時間はある程度決まっている点を考え、何でもかんでも自由というのはあり得ません。何でもかんでも自由だったら、集団にいる必要や意味がありませんね。

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「夢のようちえん」と感じるFujiこどもの家バンビーノの森はこどもの精神的体力的に最も充実した時間(午前)を野外で過ごす「森のようちえん」です。

 皆で行動を共にするために、「朝の会」「フィールドの決定」ある程度の「待ち合わせポイント」があります。
 皆で森を歩くのであまり距離が離れないように、ゆっくりな人には前に進むきっかけを作る声かけ(汽車ごっこやジャンプタッチ)もします。
 リュックをおろしてからは、自分のしたいことを始めます。朝登園する前から、歩きながら考える年の大きな子もいます。
やっと着いたとホッとして、周りを眺める小さな子もいます。

こずえさん中心に、面白そうな季節の遊びを、頭の中やリュックの中に準備していますが、自由保育であり、天候や選んだフィールドによっては、遊びのできる機会は確定されません。

 私たちが遊びを始めても、興味を持たない子は関わってきません。そんな時は、違う日にもしますし、教室戻ってから「こんなことしたんだよ」話すこともあります。「もう一度したい」「今度は僕もやってみたい」のニーズにこたえられるように、期間を長く、面白そうな季節の遊びを頭の中やリュックの中に準備しています。そして時には「来年またしよう。」もありです。

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モンテッソーリを主体(午前活動)に行っている多くの園は、こんな生活の流れを設定しています。自由保育が基本です。
 10時くらいまでに順次登園
自分で身支度や出席カードを済ませ、「好きなあそび」始めます。
11時半目安に活動を切り上げ、途中のものは明日へもちこすようにして、昼食に入ります。
午後は保育所や幼稚園で違いますが午睡や、降園前の集団遊び(または自由遊び)を取りいれるでしょう。

Fujiこどもの家バンビーノの森のモンテッソーリ教育は、昼食から始まっています。
 席は決まっていません。今日はだれと話しながらどこで食べるのか、ワクワクしながも、思うようにいかないときもあります。「近くの人と、楽しく・おいしくいただく」ように教師は声をかけます。
 食べている間に、「食べ終わったら今日は○○をするんだ。」と話す子、「いいね。いいね!」と同調する子、「昨日の続きは今日の最初のお仕事」という約束もあります。その合間に教師から、新しい遊びの紹介をして、興味を持った人は食べ終わったとすぐに取りかかることもあります。
 そのまま、2時10分ころまで、自由なお仕事の時間があります。何が何でも、何かしなければいけないわけでもありません。友達の遊びを眺めているのも「お仕事」の一つです。
 「導入」の役割は教師だけでなく、先に遊んでいる友達の姿でも成立しています。
 友達が「一人でしたい仕事」に横から手を出すのはNGです。したくなったら自分で用意して自分で始めてもらいます。
 遊びのほとんどが、全員ができるスペースや用具がありません。交代することや、順番を待つことが必要になり、「待つ間にほかのお仕事をしていませんか?」と声をかけることもあります。
 こどもが定番の遊びをいつでも楽しめるように、また、珍しい遊びに興味を持つように、季節や発達段階別に何パターンか教材を準備します。同じようなものでも、3歳と6歳では準備が違うものが多いです。

この教材準備が、私の最も「大切な仕事」で、「楽しい仕事」です。延長保育担当のまゆみさん、こずえさん・春奈さんにもたくさん協力いただいています。開園当初1年は朋子さん・聖美さんにも協力いただいていました。


2時10分頃、当番さんが声をかけ、片づけに入ります。排せつや手洗いを済ませ、2時20頃から「みんなの時間」となります。
これが最初に話した「普通の園の主活動」の時間に似ています。でも、我が園では「主」ではありません。

 「みんなの時間」は教師3人担当曜日が決まって、季節や発達にあった活動を、園の教育の方針・月のねらい・こどもの今日の情緒などを考慮してそれぞれ展開します。
 一斉に3~6歳のこどもにできるように、年齢別の教材準備・違ったものを一緒にできる工夫も必要になります。
 ゲームや体を動かす遊びでは、到達目標も一定ではなく、各人の到達点があることを伝えることも大切です。

ここまでの自由な時間の中で、大きな子が小さな子の「先生」になったり、お互いに順番を待って「お仕事」をしていたりしたこどもたちなので、「我先に!」と小さな子を押しのけることが少ないのが、うれしいことです。
同年齢の横割保育でのこのような時間は、つい「負けるものか!」意識で盛り上がることが多いですね。
まあ・・・ここまでの日本社会は競争で成長してきましたから・・・しょうがないですね。(ちょっと生意気な発言ですが、他にいい言葉が見つかりません)

 「みんなの時間」は集団の中の1人として「聞く」「見る」「話す」マナーを身につける時間でもあります。

「Fujiこどもの家バンビーノの森」設立の時(2007年)運営委員の方に「みなさんは自主保育がしたいですか?託児所がしたいのですか?保育所がしたいのですか?幼稚園がしたいのですか?」と尋ね、「概ね幼稚園」というご返答をいただきました。(そのため、私たちは教師と記してあります。)みなさんの大目標「森のようちえん」「モンテッソーリ教育」を二本柱に、入園時の資料にあります運営委員さん各々の幼児教育への思いを具現化すべく、教育(保育)のねらいの設定と教育(保育)計画の立案を行いました。実践はことのほか楽しく、いつも通り一遍にはいかず、実践を踏まえ、自分の目で見て、こどもの声を聞いて、再び理念に戻る毎日は、教育者としてやりがいのある日々です。

2年目以降こずえさんがそばで評価・反省を出してくれることで、より深まり、彼女が主体的に計画をして実行する現在は、本当に頼もしく心強く感じます。お互いに指摘しあうことで、戸惑いも出口を見つけたり、違った視点で見ることがきます。
おかげ様で園児も増え、増えたこども達に、より充実した日々が送ってもらえるように状況に合わせた小さな変更も考えています。
上記の二本柱とは別に、小学校就学前の保育施設(認可外保育施設)として、保育所保育指針に沿った保育内容・環境(人的環境含む)整備をしています。
ハード面に関してCLSさんには整備・増改築・メンテナンスのご苦労を沢山いただいています。

3つの面を持つ「夢のようちえん」が現在のバンビーノです。なんだか盛りだくさん・・・・と思われるかも知れませんね。
こどもが忙しい思いをしている園ではありません。

 こどもはただ「遊んでいる」のです。
縦横無尽に田村さんの山を、近くの山林谷間を、湖畔を・・・・
教室では、切りたいだけ切り、描きたいから描き、作りたいだけビーズや折り紙を作り、したいから、すごろくや粘土をして、知りたいから重さを量り、地図を眺める・・・・「遊んでいる」のです。

その時間こそ「遊びはこどもの仕事」=「お仕事」なのです。

 人的環境として私たち教師は、常にこども声に耳を傾け、保護者の皆さんからの話を聞き、「こどもとって何が福祉か?」振り返っていくことを続けなければなりません。

 「こども」をコア(core)に保護者の方、運営委員のみなさん、私たち教師が協力することが、コアの周りに膨らんでいく「森」「人」「教育」を弾力性のある豊かなものにしていきます。そして、「園の発展」につながると考えます。
コアがなければどこに膨らむか、どこに跳ねるか、不安ですね。

私個人は、こどもを主体(大切なお客様・天からの預かり人)として考え、
 大人(教師・保護者)の自己満足になっていないか?
 必要以上の利(金銭・名声・役得)を追求していないか?
 人と違うこと(同じこと)が良いことだと、視線を間違えていないか?
シンプルな項目を常に振り返ることが、年を重ね、傲慢になってしまわない自分への戒めです。それを他の先生方や、一緒に仕事をしているすべての方に、求める訳ではありません。
ただ、私は後悔の無い(≒少ない)教育人生を送れるように、自分のコアをより硬く、その周りは柔軟な柔らかさをもったゴムまりになれるように、振り返っていくつもりです。
※残りの教育人生は長いほうがいいと考えて、日々健康管理・若返りに勤めています!




コラム「ブーム」満足いくまで遊ぶ

2010/12/22 堀内 治美

生活発表会いかがでしたか?みんな楽しんでいたのが何より嬉しいです。保護者のみなさんは、もしかしたら、こども達以上にドキドキしていたかもしれませんね。

「Fujiこどもの家バンビーノの森」は森活動をこどもの精神状態が最も良い時間帯に設定している「森のようちえん」です。一般の幼稚園は10時半から11時半くらいに「主活動」の時間を設け、その日(週・月)のメインの活動を行います。バンビーノは午後の活動に、各自が自由な遊びを展開しています。また、季節や発達段階にそった変化ある「遊び」も提供しています。
「野外」と「室内」の「二つのようちえん」を展開していると言っていいでしょう。
こども達は双方楽しんでいます。
そんな一見忙しそうな(?)ようちえんで「発表会」に向けて“練習”はあまりたくさんの時間を取らないようにしてきました。午後の自由保育の時間・お仕事の合間に声かけ合って「やりたいとき・できる時にする」といった活動でした。ですが、こどもたちなりにその日までの活動は「一生懸命」でしたよ!

教室では、11月12月「極小ビーズのブレスレット作り」が猛烈なブームでした。
この4年間に様々なブームがやってきました。いくつか挙げると、クワガタブーム・模写切り紙ブーム・蛇腹折りブーム、などなど・・・
これはモンテッソーリの「好きな遊びを思う存分する中でこどもが満足感を覚え、自己達成感を味わっていく」という考えに基づいています。
思う存分するなかで一見同じような事の繰り返しに見える遊びも、個々に、そして日々工夫の凝らし加減が違い、だんだん繊細になってきています。それがこども達は「楽しい」のです。毎日同じものばかり持って帰ってきているようですが、1か月2か月あるいは1年後に同じ遊びを持ちかえった時、その上達ぶりを具体的に褒めてあげてくださいね。「まったく・・・ほかにすることなの?」とは思わないでください。繰り返すことが満足することです。
これが「遊び」を「お仕事」と呼ぶ由来でもありますね。
こども達があきるまで素材を用意することが私達の大切な仕事です。
求められれば、一度しまった素材も出します。また、いつでも定番の遊びが展開できるように教材を準備しておきます。
その点で、準備の不十分さを反省することはしばしば・・・
「もっと自己活動に結びつく教材の準備・研究をしなければ・・・」と日々の教育・保育の時間、あるいは、家事をしながら、入浴中にもこどもの活動を考えることがあります。
その時間がまた楽しいのです。もしこの教材研究を楽しめない教師がいたなら、この仕事に従事しても、自分が犠牲になっているような感覚が漂ってしまうかも知れませんね。
教室の活動に限りません。
森の活動でも、「この時期ならあそこが美しいかも?・・・明日雨ならこんなことをしようか?・・・昨日の遊びにあの子も誘おう、こんな風にしたら小さな子もできるかもしれない?・・・」と毎日こどもと過ごさせていただいているから、机上の理論でないリアルな活動を思いつくことができるのです。まあ・・・子育て(自分育て)ですから楽しまなくては、もったいないです。
「ありがたきこと」「おかげさま」の保護者のみなさんへの感謝の気持ちが、明日を迎える活力です。

今年は各自の遊びを展開するこどもが多く、これはこの園の4年目の成果であり、年長さん3人の「自己活動の充実」が良い雰囲気を作っていて、彼らが「良い先生」「良い手本」であることにとても感謝しています。
また、年少のNさんKさんは、教具を次々と出してくるタイプです。片付けもしっかりします。3歳という年齢もあり、自己の遊びの中にぐっと深く入り込む時間はとても大切です。
反対に「グループで遊ぶ楽しさ」を一番に追い求め、友達と同じことをしたがる人もいます。こちらは、ちょっとした言葉掛けで、皆と一緒に・・・あるいは順番で・・・お互いの考えを話しながら・・・人とのかかわりを感じながら・・・遊びを展開できる良い点がります。
そんな様々な個性が一つの部屋に同時に存在することが「集団教育の中の自由保育」の面白いところです。みんな同じじゃなくていい、でも、友達の遊びを邪魔することは良くない。これがこども達の一番のルールです。

すべての人が、まんべんなく学ぶ事が出来る学校教育とは違い、好きなことは深く・・・友達のしていることも、年齢をまたいで「見ている(感じている)」のがバンビーノのモンテッソーリです。他の友達は持って帰ってくるもの(作品)も、わが子が持って帰らないことがあってもいいのです。

皆さんの作品ファイルが楽しみです。毎年,ウルウルしながら拝見します。きっと今年も個性が表れているでしょうね。「わが子の足跡」は数年後きっとパパ・ママの宝物になりますよ。

「形にならない遊び」も多くあります。感覚教具での学びはその代表であり、五感の扉をノックしている(感覚を目覚めさせている)状態です。森での活動も同じく感覚を使うから、毎日飽きずに楽しめるのです。
その成果はもしかしたら長い年月、表には出ないかもしれません。
しかしテキストブックの2次元の中で、大きい小さい・長い短い・太い細い・深い浅い、音色、寒暖・温冷、酸味・甘味・苦味・・・・などを学んでもこどもの感性深くに刻まれるでしょうか?
実体験は言葉が無くても、こどもの体で学べるものです。そうして、言葉を添えていくことが0~3歳までの触って・なめて・目で追って習得してゆく「学び」の過程です。今はその延長として自然な発達に沿った「学び」の過程です。

他にも面白い遊びがあります。様子(ドロドロ・真っ赤など)や感情(うれしい・悲しい・ドキドキするなど)を表す言葉をお互いに考え使っていく遊びや、先日持ち帰った「良いねカード(友達のいいところを探す)」もあります。
12月は「フワフワ言葉チクチク言葉」をしました。
フワフワは聞いて嬉しくなる・ホッとする言葉です。代表格は「ありがとう」で他には「そうだね」「一緒にしよう」「どうぞ」「ちょっと待っていてね」などだそうです。
チクチクは聞いて悲しくなる言葉です。「だめ!」「嫌!」「どけ!」などで、単語よりも、語尾の荒い言い方がチクチクに感じるそうです。
フワフワを使ってチクチクをなくすのではなく、内容(自分の考えていること)を話していけるようにしようと思っています。

園のこどもとゆっくり話していると、母としての家での自分の発言を反省するばかりです。
家族だからついつい、「チクチク言葉」が多くなってしまっています。



コラム 「丁寧な暮らし」
                          2010/10/13   堀内 治美
 毎年感じるのですが、秋になるとこどもたちはぐっぐっと成長します。心も体も、そして、力(観察力・手先の機能・思考力・理解力)がぐっぐっとついてきます。
そんな時期だから、「丁寧な暮らし」を心がけています。

私はこどもと着替えをします。私の着替えている姿はこどもの手本になるからです。そして、季節の装いを心がけます。いつも同じ和み系キャラクターエプロンとジャージの「センセイ」では季節感や私らしさ(教師らしさ)伝わらないからです。三浦・勝沢の二人にはご自分の個性を出していただくように仕事を始める前にお願いしてあります。森のようちえんである午前は必要な装備・服装が優先されますし、それが森のようちえんの「指導者」でしょう。ただ、私たちのバンビーノの森の場合、午後は「幼稚園」と同じ教育環境を提供する「幼稚園教諭」としての職務全般、またその上にモンテッソーリ教育を基調とした教育を行う人的環境のひとつである「教師」です。そのことを意識して行動しなければ、イスや机のない教室と同じです。

そんな人的環境をポイントに9月から10月上旬のこども達の様子を参考に考えてみましょう。

教室の活動
モンテッソーリ「生活」の活動より
暮らし全般、落ち着いてゆっくり動きこどものよき手本になるように教師は心がけています。教師は3人・・・それぞれの個性はありますが、こどもの手本になるゆっくりした動きをしようと努力しています。多々反省はありますが、こどもの目の前では、「教師」であることをしっかり意識するようにします。

 「線上歩き」(白い線の上を美しく歩く。背筋を伸ばす。状況に合わせた身のこなしを考える。)

こどもは時々「白い腺の上を歩く」ことで、「美しく歩く・美しい姿勢」をしっかり認識しなおします。教師や友達の姿を「見る」ことも、十分自身が行う以上に習得への近道です。


 掃く・洗う・拭く(掃除の仕方、きれいにすることを考える。)
 あけ移し(水を注ぐ・手と目を呼応させる。集中する。)

などは、当番や普段の暮らしで必要に応じて行っていますが、先月今月は、「手元の見える位置」をこどもに気付かせ、より確実に丁寧に動けるよう声をかけました。
大人は高い視野からカップ・机など全体を見ることができますが、こどもは低い視野からカップの内側を見ることのできる位置で仕事をしなくては、「丁度良い量」には注げません。そのこどもと大人の違いに気付けるか?気付けないか?が教師の力量でしょう。気付いたら初めて指導法を考えることができるのです、気付かなければただ通り過ぎるだけです。

 編む(紙で三つ編みの基本を身につける)
年中以上のこどもに一斉指導で提供してみました。みんなきれいに三つ編みができました。年少さんは2色のじゃばら折りを丁寧に一斉指導しました。
3色同じ位置で同じ順番で習得できるように教材を準備することが最大のポイントです。習得後は個人の個性を生かした色合い、毛糸など素材の違うもので個性を発揮してもらいます。
一気に毛糸でしたい気持ちはわかります。しかし、「丁寧な仕事」を身につけずに先に進むと、とんだ「がっかり感」や「いらいら感」そして「どうでもいいや感」で投げ出してしまいます。
そういうスッテップを踏まないと大きくなれないこどももいます。
そんな人にはまだ時間が沢山あるこの幼児期に「沢山の失敗」もしてもらい、その後教師から「少しの時間私を見ていてもらえるかな?」と念を押し、「手を出してしまいたい気持ち」を抑え、仕事の始まりから完結までを見て学んでもらいます。基本さえ学べば後は自由に工夫を凝らせばいいのです。
基本(大人・教師の手本)がないと「何をめちゃくちゃなことしているの?」という風にこどもの創意工夫が見えてしまうのでしょうね。

これが「自由保育」と「放任」の違いのひとつでもあります。

 切る(鋏で形を切る。切り落とし・切り込みの違いを知る。ハロウィン製作)
年少さんは1回切りをもう一度基本の姿勢から見直すことで力がついてきました。食事と同じく姿勢と手首の固定が鋏の仕事を美しく・行いやすくする基本です。「切れればいい」のではないのです。
たとえば「線を切る」とはどういうことでしょうか?
線を切った場合切った両側に「線」が残るのです。それを目の前で切り、両側に残った線を見せることで伝えることで「線の真ん中を切る」が視覚から確実に伝わるのです。教師はなんとなく切るのではなく、それを「伝えるために切る」のです。



私はこどもとの当番活動のときエプロンと三角巾を必ずします。食事の準備に向けて実際の仕事の内容は他の先生のほうが沢山しているのに、格好だけは必ずします。それは「エプロンが着ても着なくてもいいもの」になってしまうことで、当番活動の責任、衛生、エプロンを着脱するときに学べる多くの生活力を失いたくないからです。先生が何も言わずに毎日着ることで「着なくてはならない当たり前のこと」にしたいからです。


他にもこんな遊びを教室では展開しました。

M言語
 鉄製はめ込み(手首をやわらかく動かす→形をなぞる。年少・年中→形をなぞる遊びを楽しむ。年長→手首・腕の右回りの動きに慣れる。形の合成を楽しみ色合いを考えて模様を作る。)
年中さんに丁度いい遊びでしょうか、よく楽しんでいました。「文字を書くためへの準備」ですが、そんなことをこどもたちは考えず、形様々、美しい色合いを工夫していました。その過程で教師は「右回り」や「角で止まること」を手本で印象付けます。


M数
 数字版の洗濯バサミ(1~5)・・赤い丸印と同じ数の洗濯バサミをカードにつける遊び。赤の数字シール(ケーキのイチゴ・かたつむり)数字と同じ数の赤いシールを貼る遊び。
こどもは「数」が大好きです。年齢を数えるのが「誇り」でもあります。人の体は十進法に適して、左右5ずつ指があり、セットで10の単位に繰り上がることができます。数を幾つまで数えられるかよりも具体物に対応させて5まで(年中)20まで(年長)数えられることが大切な生活力です。それを「数の勉強」ではなく森でどんぐりを数え、教室でケーキのイチゴを数える遊びを楽しみながら、並べ、追い、分ける、合わせることを経験しています。繰り返し、繰り返し、遊びます。
また、今月はサイコロも楽しい遊びに加わりました。自分で作ったサイコロだから嬉しいですね。年少さんはメインのシールのみしました。年長さんは切り取りも上手でしたね。一緒に平面から立体になる工夫を考えることができました。


M感覚
 はめ込み円柱を重点的に、9月はグループ・個人で楽しみました。年長さんは嵩を記憶する遊びへと展開させています。 
年少→つまむ・ぴったりの穴に円柱を差し込む。
年中・年長→観察力を発揮し、嵩が増える段階性を楽しむ。


衣服について
前後の話・・・トレーナーはイラストやボタンで前がわかります。肌着も女児のリボンなどがついているものは前がわかります。
「首の後ろにタグがついている」という認識は、5歳くらいまでそれを後ろに着ることは、少し難しいと思います。「ママがつけたこのマークを前に着てね」としておくと、前にマークがあるかないか、着終わったあと自分で「間違え訂正」できます。そして、自分で着替えなおせます。ちょっとした教師の声かけ「この服の前はどちらなの?」という問いかけがあると、自分で答えることができます。
園では自分で着替えをするだけで、「とてもエライ!!」のです。なんといってもまだ3~5歳、裏返しでもいい・後ろ前でもいい、と実は思っています。でも、こどもたちは出来ることは自分でしたいのです。
形の認識が上手にできる6歳くらいまで、もしランニングの前にマークを付けてくれたら、少しこどもの仕事が楽になり、代わりに気持ちよく着ることと、自分でできる自信がつきます。
成長すれば、形の認識ができ3次元で自分の体と衣服の前後を意識できる日は必ず来ます。
それまで、全てではなく「前後がわかりづらい服にだけ」マークを付けてみてください。それには、まず家でも着せてしまわずに「服を着るこどもを観察すること」から始まるのかも知れませんね。




コラム「ごっこ遊びと森の遊び」

                        2010年9月6日 堀内 治美

 森は毎日少しずつ違う顔を見せています。
同じ道でも昨日との違いを気付ける時があります。
たとえば、蝉の鳴き声。
昨日はうるさいほどに鳴いていたのに、今日は全く聞こえてこない。
また、雨の日や雨の翌日にしか見られないキノコ。
ぶよぶよとゲル状態になったキノコや、やわらかくなったきくらげ。
泥の具合も空気の湿気で違ってくる。
その連続で、四季を通しては皆さんが遊んでいる森は、大きな変化を展開し、繰り返す物も、繰り返さない物もある。
「自然・四季・森の変化を感じてもらいたい。」これは園の教育的ねらいの一つでもあります。

 こども達は時々ブームを展開します。恐竜を作って遊ぶブーム、折り紙でセミを作るブーム、ペープサートを作って演じるブームなどなど・・・
たくさんのブームがあり、遊びを繰り返すことで深く・広く展開し、お互いを刺激し続けています。
そして、バンビーノにも、TVのキャラクターブームがやって来ることがしばしばあります。
戦う戦士のTVヒーローです。どの時代もあった遊びですね。古くはきっと「チャンバラ」でもあったでしょう。乱暴なように見えますが、その中で、力の加減や友達との協力も学んでいます。
女の子にも可愛いキャラクターの戦士になり、戦ったり会話のやり取りを楽しみ、ままごと風に家族や店屋を演じ、思いを発散したり、時にはお気に入りのドレスキャラクターファションで楽しみ、表現している時期があります。
どちらも「大切な発達段階」です。

 それを踏まえ・・・
三浦と堀内は4年前から戸惑うことがありました。自由保育の中、自然という出会いの保障できない偉大な教師を目の前に、ずーっとヒーローでいいのか?ずーっと自分以外のだれかを演じ、友達にも誰かになってもらうことで、遊んでいて良いのか?
うまい具合にごっこあそびの中に入って自然に目を向けるように、誘うこともあります。みんなで考えよう・やってみようと、一斉に声をかけることもします。
その按配がごっこ遊びには難しいのです。
そこで、ちょっと提案です。TVは見るも見ないも家庭の方針です。キャラクターも好きなものがあって当然です。親子がお互いに無理して取り上げたり、生活パターンを変えてまでそれらを遠ざけるのは、各家庭の判断でかまわないと思います。
園によっては森でのキャラクターイラストの入った物を使わせないで下さいと、保護者にお願いするところもあります。そこまでしなくても・・・・と思うのは「じゃぁ、虫なら良いのか?電車なら良いのか?お姫様ならいいのか?いとこのお姉さんになるなら良いのか?教室ならいいのか?帰りの時間ならいいのか?」とこども達はすごいきりかえしをしてくるからです。まして、親離れしたばかりの3歳児とともに過ごす日々です。
園では、せっかく森にいるのだから、こども達が感じるべき自然・学ぶべき自然があると教師が心において、ずーっとヒーローでいる状態、ずーっと自己の空想の世界でいるこどもを、「自然の中で感じる子・遊ぶ子」に引っ張ってこようと思います。それは私たちの理想とする教育のねらいなのです。
 自由保育の範囲で強制ではなく、誘い掛けていきます。
しかし、個々のこどもで何かストレスを感じる場合は是非に「個人」のこととして遠慮なく相談くださいね。




着替えるこども達

 皆よく着替えます。年長さんはさすがに手早く着替え顔を洗ったりしています。
年少さんは、裸になり一瞬ボーと周りを眺めることが多いですね。
着替えの途中、着替えることがいやになってしまう人、着替えることを忘れてしまう人がいます。
着替えは1つの椅子を自分スペースの目印にして行うので、皆と少し離して落ち着いて取り組めるようにしたり、自分でできるように並べておいたり、声を多めにかけます。
そして、難しいところは手伝っても、できるところは任せています。ランチになってしまうときもあります。
 大人は左手に袋を持ち右手で押し込みますが、年少さんにはなかなか無理な動きです。そこで汚れてしまった服を入れる袋をバケツのように広げて床に置き、入れ込むように声をかけています。こどもが「できな~い!!」と困っている事柄があったら、言葉で言うことよりも、こどもの動きを見て、大人がワンスッテップ多くても「手本」をやって見せてください。見た後に(できるようになった後に)言葉を添えると深い理解、言葉と行動の一致につながります。言葉だけでは何十回言っても出来ないのがこどもです。それは言葉と行動が一致していないからです。
くしゃくしゃ、泥んこ、うらがえし・・・本当にごめんなさいね。
教師も気付いてはいるのですが、着替えるだけで精一杯、自分が前後反対に着たのをなおすのも、やっとこさのかわいいみんなに、これ以上は今の段階、要求できません。毎日自力で着替えるみんなはそれだけで「立派」です。
家で入浴前など余裕があるようなら、年長さんは服の表裏を直すように声を掛けてあげてください。




コラム 「ミラーニューロン・見つめる効力」      2010年6月7日   堀内 治美


今回は姿勢につて考えてみましょう。
こども達にとって、しっかりと美しい姿勢は集中力を生み、成長を順調にし、様々な運動能力の習得の基礎として最も大切です。
こどもの姿勢が気になるときは、身近な大人がまず、自ら姿勢を正しくするように心がけてみてください。大人にっとても良い姿勢は、基礎代謝が上がり、慣れてくると、快眠を誘い、内筋がつきバランス性も向上します。ナチュラルシェイプアップになりますし、しかも一生ものです。(専門家の朝比奈代表には恐縮ですが、以下子育て視線で展開します。)

人間の筋肉には姿勢を保つ筋肉と、運動を有効にする筋肉があります。前者の姿勢を保つ筋肉は、こどもが、くにゃくにゃの赤ちゃんの時から、首が座り、首や手足を動かし、泣き、排便でふんばりことで、第一の基礎が造られていきます。その後、寝返り、お座りや、這い這いをへて、直立するようになります。直立後は重い頭を支えることで平衡感覚を体得し、「こらえる」力がついてきますね。
順調に1歳までは「自然の性」で育ちます。この段階で私たち親はその都度、寝返りの安全性・誤飲の危険回避・転倒時に周りの家具にぶつからないなど、環境を整え、こどもを「性」のまま自由にさせることが大切です。
自ら育とうとしていることを重く尊重しなければなりません。「汚いから」「けがをするから」・・・と思うならこどもの行動に目線を置き、危険を回避するのではなく、親として、1歳のこどもが過ごせる環境に十分な配慮をしてください。
上記を基本に3歳以降「あら・・・うちの子は大丈夫かしら?」と考える親御さんは、こどもに「しっかり座りなさい」と言葉をかける前に、再び年齢に合った環境の工夫をしましょう。また、後で述べるミラーニューロンの話を頭の片隅に、大人も一緒に姿勢を正し、ナチュラルシェイプアップしていきましょう。

姿勢と食
ここ数年こども達と暮らしを共にしていて、気になる点を挙げてみます。
少しの時間、「わが子」を重ね合わせることなく、一般論として、さらっと想像してみてください。
観 察
①右手だけが、食べ物を口に運び、左手がテーブルの下にだらんとなっているこども。(こどもによっては両手をだらんと下におろしたままの人もいます)
②背もたれによりかかりすぎ、だんだんと尻が前にずれ腹が内側にまがった状態で、足が床に対して直角ではなく、力なく投げ出されているこども。
③テーブルに腹をぴったりつけようとするこどもも多いです。
考 察(以下にあげる予想以外にも要因は複数あります)
①は誰かが口に運んでくれることが習慣化した状態です。
②は①と同じ状態で想像できるのは、大人の高いテーブルで足をぶらぶらさせて食べることが習慣化した姿です。
③は床こぼさないようにするにはとにかく隙間をなくそうとしている姿です。

園では恵まれたこと(当たり前かもしれません)に、こどもサイズの椅子・机を使い独力で食事のできる環境があります。では、同じものを家に購入すればいいのでしょうか?・・・いいえ!それは、文化に反することです。人は家庭という枠の中で「親」を手本に育ちます。大人の家具の中で生活することは、古くから営まれた自然なことで、必要な適応力です。
もし、3歳以降「あら・・・うちの子は大丈夫かしら?」と考える親御さんは、0~3歳までにうまく「敏感期」を獲得できなかったもしれない部分を刺激する「環境」を工夫しましょう。
まだまだ、十分取りかえせます。一生取り返せます。でも小学校に行く前に出来ることはやってみましょうね。こどもはとても柔軟です。だから人類は環境に適して生きてこられたのです。

①の場合、年齢が低ければ、べたつかない手で食べられるものにするのが第一スッテプです。自分で食べている「意欲」を育てることをマナーの前に育てることです。
続いて、肘がテーブルの上にくる位置まで、座り位置を上げましょう。たとえ、手が疲れて箸やスプーンを運ばなくなっても、スプーンを持たせ手をテーブルの上に置くように声をかけましょう。
また、「箸が使える」としても、料理の内容ではスプーンやフォークを三本の指でしっかり持って、脇が広がらないように口に運ぶように、時々持ち手を直してあげてください。「違うでしょう。」とは言わずに、「こうして持つときれいよ。」「上手にたべられるわよ。」と声をかけたり、そっと、握りを直してあげたりしてください。

年齢が進んだら、こどもの手の大きさに合わせた重くない椀を左手に持つようにしてあげましょう。スープなら半分程度入れ、よそみをしても重みですべてがこぼれるほどの量を入れないことです。また、こぼすことは、最大の経験です。「こぼしたら、こどもと一緒に拭く。または完璧度を求めず、こどもだけで拭く」様にすることで、こぼすことは、マイナスが多いな・・・と感じ、次の経験に生かされます。「も~~!!」っと怒りがこみ上げてきますよね。でもそれは、大人ですから、「あらあら・・・大変!どうしましょう??」と一度こどもと顔を見合ってください。本当に困った顔をしてください。「も~~!ダメじゃない!と目も合わさずにせっせっと親が拭きだしたら、こどもは呆然・・・何を学んでいるのか想像してみましょう。「も~」??「だめ」??「ささっと拭く」??今学ぶべきなのは、左手で椀を持ち口元に運び、右手で椀の中身を口にいれ「おいしい・あたたかい・しょっぱい・硬い・柔らかい」を感じながら食事をすることです。
これには日本人の基本、「肘をテーブルにつかない」食べ方の基礎となる部分です。
なぜ、テーブルに肘をついてはいけないのか?行儀が悪いからか?行儀という言葉が3~5歳に十分理解できるでしょうか?「肘をテーブルにつかない」食べ方は、両手がスムーズに動かせる食べやすい食べ方です。

箸にもいえます。箸を急いでしまった子は、確かに箸で食べていますが、左手で箸先の食べ物を抑え、左手で口に押し込む癖がつくこどもが多いです。価値観の違いもありますが、スプーンでちょうど一口大でパックと入るのとどちらがいいでしょうか?箸をたくさん使わせたいならば、「One Bite Cut」の箸先でつまみやすいおかずを用意し、まだ米粒を箸先で集められない場合は、米も一口大の団子に作ってあげるといいでしょう。
ただ・・・そこまで手間暇かけて毎日の食事をこども用に準備しなくても、家族と同じものを、適宜な用具(フォーク・スプーン・小さな軽い椀)で食べるのが家族の文化ではないでしょうか?同じく、軽くて割れないプラスティック製品が多いこどもの食器です。高価でなくても「割れるものは割れるもの」でいいと思います。割れてしまうお気に入りの茶碗に出会ったとき、物を大切に扱う気持ちを知るでしょう。どちらの選択が良いかは、こどもの育ちやママのやりやすい方がいいのです。
園以下の視点で選択をしています。自分で食べることが必要で、大切にみんなのものを扱う「こども社会」です。皆さん持ってくる弁当はそれぞれですし、ランチもこどもが苦労して口に運ぶものも(それも年齢や食の楽しみとして必要です)あります。適宜にむすびをつくってあげたり、ちいさく切ったりしています。
外で食べる機会がある味噌汁の日は安定性の良い熱の伝わりにくいプラスティックの椀を用意しています。こどもにとって、野外で足を折り曲げ、膝の前に食べ物が並び、足でけらないように、口元まで約30㎝食べ物を運ぶことは、それだけでも苦労です。まして少しでも傾斜があると難度は上がります。「外で食べると気持ち良い。」高い空の下・風の中・鳥の声、この気持ち良さを感じてほしい。続けて満腹に至る充足感はこどもと自然を結びつけるには、とてもいいプラスの連鎖です。これを感じる時に必要以上気遣いの付加を避けています。

教室では茶を飲むカップは陶器ですし、お茶のポットは透明な耐熱ティーサーバーです。取手はこどもに握りやすい大きさで本体も小さめのです。それぞれ、コンセプトのある「適宜」です。ランチの人は陶器の食器です。
ただ、気をつけなければならないことは、良い素材の「本物」が今のこどもの暮らしに無理なく「本物の素材感」を確かめられるか?が選択のポイントだと思います。無理な大きさの箱・無理なストッパーのケース・無理な開閉のネジ・・・もちろんこども達はとても優秀で訓練すれば出来ます。食を楽しむことに訓練が必要でしょうか?
自分から、親の姿や、ちょっと年上の友達の姿を真似するくらいで良いと思います。
Try精神は大切です。でもあまり多くのがっかり「出来ないから先生やって」が重なるものなら思い切って見直してあげるほうが「心の育ち」にはいいと思います。ここのところはまさに「按排」です。どうぞゆっくりこどもを見ることから始めてみてください。
食べづらいとき年長さんでさえ、フォークやスプーンを自ら持ってきます。その方が、食の多様化の時代当たり前の、「マナー」ではないでしょうか?
もう一つ、こどもの手元に手拭きやティシュを置いてください。こどもらしいかわいいしぐさで、手で口元をぬぐいその手を自然に胸元にこすりつけることがあります。それもアウトドア的で生活力があるとお考えなら、それも一考ですが、近い将来必ず修正の時期はきます。来ないと困りますね。

「エジソンのお箸」をご存知でしょうか?私が1~3歳のこどもを育てていた頃にはないものでした。
障害のある人が生活のサポートに使うものに似ていますね。インターネットでも販売元の情報を集めてみました。うまく利用している保護者のコメントや、画期的な成長補助用品という印象を受けました。

園でも「エジソンのお箸」を使うこども達を、一年ほど観察してきました。箸先が平らで3歳でもつまみやすい形です。ただ、リングに固定され、ヘッドにキャラクターが重い分、箸を開くことに手のひら全体を使い手がパーの形に近づく用に思います。同時に脇が開き、三本指で作業するというより手の甲で持ち上げる状態になります。それと、同時に手の甲に力が入る動きと脇の広がる動きを覚えたことでハサミの習得に一度力を抜く、姿勢・腕の位置を身につけさせることが必要になります。
ある程度手の力と親・人指・中指の動きがスムーズになったこどもで、箸の握りがうまくいかない、箸がクロスしてしまう、箸先が閉じない人には有効かもしれません。

お子さんの発達段階を確かめるようにして、ちょうどいいスプーンも経験させてくださいね。何より「おいしく自分で食べている気分」になることを1~2歳で経験して、その延長で出来ることを重ねていきましょう。

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2010年4月、森のようちえん全国ネットワークが開催した「森のようちえんカフェin清里」で諏訪東京理科大学、篠原菊紀教授のお話を聞きました。
こどもの育ちを健やかにするには、野外の遊びはとても有効で人の「心」となる前頭葉の発達を幼児期に有効な促す様々な参考事例を科学的に現実的に聞かせていただき、とても参考になりました。その後、「これはこども達にフィードバックしたい。そして、こどものみならず大人も、私自身も今後の生活に大切な視点だ。」と思い篠原教授の本を読み始めました。
その中から、今回1つお話しさせてください。ただ、篠原教授のお話を基に、私の視線から「こどもの育ちと育てる大人の気持ちの持ち様」をお伝えします。

「われわれの脳には人の動作をつい真似してしまうニューロン(神経細胞)があります。相手の動作を見ている時も活動するし、自分が同じ動作をしても活動するニューロンです。鏡のように相手の動作を写し取るのでミラーニューロンと呼ばれています。」
「大脳の真ん中あたりになる扁桃帯は、海馬という記憶の中枢である部位にくっついてあります。扁桃帯の基本的な働きは一時的な価値判断をすることで、生き物として近づくべきか、遠ざかるべきかをきめその記憶を蓄積していきます。」
「人の脳には『つい誰かをいじめてしまう』ことにつながる回路があります。その回路は、もともとは同族同士の餌の取り合いのために役立っていたり、子孫を残すために同性を排除するために役立っていたり、敵と戦うためにすぐに行動に移れるようにできている回路です。(中略)私達はどんなに『人好き』な人でも視線が合えば扁桃帯の奥の方が反応して防御的な情動が生じます。他人の視線は無条件に怖のです。これは消せません。しかしその上に『快』の感情を重ねていくことはできます。(中略)
「親しい者の笑顔だとか、親子の共同性で、心の安定基地をしっかり築くことは、この『恐怖』の上に『快』を置く上書き機構を充実させることです。(中略)それは『愛』です。そして、『愛』にかかわることが、見つめること相手の心を思いやること。やさしき見つめ、相手の心に自分の心を沿わせる時間を作ることは、この防御的な回路・ただのいじめ回路を『人らしい回路』に作り変えていくいことです。」
・・・・・・篠原菊紀教授著「キレない子どものそだてかた」参照

上記の内容では難しかったり、ちょっと深刻になってしまったりしますか?
実際の篠原教授は講演や著書で「普通の暮らしや外遊びが、何よりもこども達を自然な形で成長させる様々な要素をもつ」とわかりやすく説いてくださっています。
篠原教授には、はるかに及びませんが、堀内流に噛み砕いて、楽しんで子育てできるように、今の私達に置き換えて考えてみました。

こども達は初めてのお乳の時から、ママやパパの愛情の瞳から「好き」の視線を覚えています。
子育てをしてるとき誰だって、「あ~イライラする!なんでそうなの?!」「今、忙しいのにわがまま言って!」「どうして仲良くできないのよ?!」と日常思ってしまいますよね。
親はこどもによって「忍耐」を学ばせてもらっています。そんなイライラが心に広がった時、やはりパパやママの瞳は悲しい色になってしまいますね。イライラを抑えたいときは、ほんの1秒こどもの瞳の奥を見つめてください。また、すでにこどもが大人の困っていることを判って、反応を見るようにわがままを言う時は、こどもの頬や小さな手をほんの1秒見つめてください。「かわいい」と思うでしょう?
そして「かわいい」と感じた瞳でこどもを見つめ直し、年齢に合わせた対処をしてみてはどうでしょうか?2歳くらいまでなら、生理的な要求をうまく伝えられなくて癇癪を起すことが多いでしょう。5歳なら話して伝えることの必要性や、状況を落ち着いて観察するように示唆することが必要です。ただ、話すとき目線を合わせて、叱るときでも奥底に「かわいいわが子」の信号を発した目線で話すことが重要だと思います。作り笑いをしたり、ちょっとごまかしのアクションでその場をしのいだりしていると、いずれその子は「相手の気持ち」の汲み取りが困難になるのではないでしょうか?また、目線を合わせずに話すことは「気持ち(心)」はどこにあるのかが、こどもにわからなくなると思います。
家事をしながらこどものおしゃべりに付き合う時もありますね。そんなときも「そう、楽しかったのね。」「明日もしたいの?」「悲しかったの?」「びっくりしたね。」と返答を少しするときにほんの1秒こどもの瞳の奥深くを見つめてあげましょう。ずっと目線を合わせたままなら、お互い息が詰まります。相撲の見合いでは困りますね。

多くの人の「顔」に出会うことは様々な「気持ち(心)」のパターンを経験し記憶していくことです。小さくてまだまだ一人では無力な頃から、こうして違う大人と多くの時間を過ごし、年齢の違う友人と話し、ぶつかることは、「感情」を学ぶのにこれ以上環境はないでしょう。
ただ、篠原教授の「親しい者の笑顔だとか、親子の共同性で、心の安定基地をしっかり築くこと」は基本です。親は親なのです。人の感情を洞察することに関して、こども達は今またとない「敏感期」を迎えています。それは小学校という社会に巣立つ前の当たり前の期間なのです。この時期を親がゆっくりと受けとめることは、友達関係や学校生活における授業などで「状況判断ができるこども(友達とはしゃげる子・授業に集中できる子)」を育てるポイントです。いろいろしなくても、ゆっくりほんの少し見つめることです。

見ることで『愛』は生まれます。『愛する』という動詞は、やはり他の動詞『走る』『食べる』のように自らしようと思うと、感情をさらに湧きあがりやすくなるでしょう。『見つめる』事をしてみましょう。
だって、かわいいでしょう?この子たちはとてもとても一生懸命です。一生懸命わがままをいいます。一生懸命しても、壊したりこぼしたりします。頬は柔らかく、手先は小さく、腿はプルプルしています。寝顔でもいいでしょうね。いっぱい見るうちに、私達大人は「いとおしい」感情が親の瞳に広がります。

そして、ミラーニューロンを活用しましょう。こどもは見ているのです。見つめれば見つめ、親がしっかり座ればそれも見ているのです。「おいしいね。」とほほ笑み、「待っていてね。口に食べ物が入っているから・・・」と口を隠し、良く噛み、飲み込んでから話を続けることも真似するでしょう。
ついつい、こどもは一人で食べさせて家事を・・・・と思いがちですが、毎回毎日とはいいません。一日1回でも、週に何回かでも、「食事を一緒に姿勢を正して食べる。親が少しマナーを意識して食べてみる」事をしてみましょう。赤ちゃんがいたり、仕事の準備があったり家族の形は様々です。それを自分で責めないでくださいね。

余談ですが私は3週間前、眉間に深い傷を負いました。応急手当は年中父兄のN(元看護婦)さんのアドバイスでうまくいったので病院にはいきませんでした。主人は24時間、私が自分から「ねえ、私いつもとちがいでしょう?」と話すまで(いいえ話しても)眉間の怪我に気付きませんでした。でも、月曜日に年中のS君は「治美先生、おでこどうしたの?」と尋ねてくれました。これは嬉しかったです。見ていてくれる人がいる。毎日この人たちに会える。このこども達の暮らしが私の活力源です。
また、我が家の息子①は14歳です。あまり自分からは話しません。思春期になると人の心を読むことが幼児期や学童期よりも、少し鈍るそうです。そして、理性と感情を上手に受けとめられるようになり社会化し自己を強く形成してゆくのです。
社会では、この時期の十代のこども達が何かと問題行動を起こし、「今のこどもは何を考えているのか・・・?ゲームの影響か・・・?」と騒がれることが多いですね。そして、鳥肌が立つほど悲惨な事件も実際にあります。
息子①は、のんびり屋すぎる面と、学校に再度呼び出される「よたっこと(悪さ)」を仕出かす面があり、親としてわからない部分が増えてきました。そこで、見つめることにしました。「気持ち悪い」と思われない長さで、意識して彼の瞳を見つめます。思いすごしかもしれませんが、最近少し「いい子」になったように感じます。親ばかかもしれません。息子①は、もう十四歳・・・離れていくことは順調な成長と思いあきらめることにしています。



コラム春「働くということ」役に立つということ・
一人ではできないチームアクショ2010/05/07




人は働くことで対価(金銭)を得ます。
対価(金銭)を得るために働く道も当然ありますし、そういう場合は自分の生きがいを別の場所に見つけるでしょう。しかし、対価はお金だけでしょうか?こども達の笑顔・保護者の言葉・自分に残る経験や思い出は仕事をする対価(金銭)にはない恵み(誰からかの施し)です。その為にはやはり自分も対価(金銭)を期待して働くのではなく、自分がこの社会(狭く身近な人々)に何が出来るかを考えて働くことが大切なのではないでしょうか?そこに納得いくお金がつこうが、つくまいが・・・・そんなことは結果でしかありません。結果までの間「過程」に多くの恵みを、お互いに受け・与えるていくことが「社会的に働く」甲斐だと思います。
すっかり奇麗事に聞こえたらごめんなさいね。
実は何も出来ない赤ちゃんも、泣いて、ママの乳を吸い、笑い、目で追うようになりその過程それぞれで、家族を励ます「仕事」をしてくれていると思うのです。まさに、無償の施しです。(みんなの愛情を受けたギブandテイクでもあります)

それを前提に、今パートナーの二人の先生は自分と教師の仕事のキャパシティを良く分かってる方です。無理はしません。でも今もっている力をこども達に惜しみなく注ぎながら、自分を伸ばしています。
3人力をあわせ運営委員さんに支えられ園生活を展開していくことが、最も大切なことですね。
「協力」は頼りすぎたり、命令的になりすぎたりすると出来ないものだと思います。今自分のキャパ(内的能力)にあるものをどこまで使えるか、今園にあるもの(資産・保育資材・環境)をどのように利用できるか、お互いの特性を良好な立場で発揮していけるバランスは良いのか?そうした上向きならせん状な話し合いが、園の発展だけではなく、教師・保育士・社会人として自己を伸ばしていくことだと思います。自己を伸ばせばそれはまた、こども達にいい影響として返るでしょう!!だってこども達が私たちを伸ばしてくれているのだから・・・・・とぐるぐる回るんです。これもまた生きなおしの「輪廻」ですね。その一部でしかないことも自分自身が知って謙虚に日々を送って行きましょうね。

保護者の皆さん、これは会社社会でなくとも、近所付き合い・ママ付き合い・親戚付き合いのいずれに置き換えてもいいと思います。そして、保護者の皆さんは私たちの「先生」であることを大きく胸に刻んでください。よろしくお願いします。

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コラム 「生」を食する  2010/4/27


魚の鱗が分からないでなぜ鯉幟を作るか?
私は長いこと保育の中で疑問を持っていた。
このようちえんをまかされ、はじめにこの疑問を解こうと考え3年前から、こいのぼりを作る前に、本物の魚を鱗がついたままこどもに見せるようにしている。

背びれ・尾びれ・えら・歯・・・・etc



リアルな体験はこどもの感性の目を開く最大の鍵です。
背びれ・尾びれ・歯・目玉・・・
皆と同じところ。違うところ。
そして、このイベントは開園依頼ひそかに毎年行われている素敵なたのしみです。
そこからは
①鯉幟の真の姿を想像し
②魚を観察する
③生き物の生きてる時を想像する
④生を食する自然への感謝を考える。
とほんの10分の楽しみに大きな・一生に続くテーマが存在する。
でも.......
ただただ、こども達は「驚き・はしゃぎ・喜び、時にはおびえる」位なのです。
それでいいのです・・・・


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コラム 卒園の涙   2010/3/5

 3月、旅立ちの季節がやってきました。幼稚園・保育所時代のの卒園が、親にとって一番感慨深いものです。それはきっと、たくさん手をかけ、気をもみ、送り迎えの日々を送る子育てが一段落がつく、けじめの時だからでしょうね。
子育ては航海ですね。道がなく、尋ねながら、方位磁針を友人・祖父母・教師に求めつつ進む、パートナーとなる人がいる母(父)も、いない人いる。パートナーの協力度合いはこれまた家庭それぞれ・・・(*_*)
その荒波を乗り越えてきた春の日、まるで一人で大きくなったような顔をして立派に証書を手にするわが子が心の底から「いとおしくなる日で」すね。

 私は仕事の上では、卒園を考えるのはとても早い時期で、お子さんを預かったその日からすでに卒園を考えているような気がします。

 たとえば今、年中のT君が初めて森を歩きだした時、寡黙にじっと周りを観察しながら歩く姿に、こずえさんと「この凛とした横顔は、どんな年長さんとして卒園していくのだろうね?」話したのを覚えています。森での瞬発力は彼の天性の才能と努力(ついていきたい!負けたくない気持ち)の成果です。もう一人のT君はにぎった手を離そうとしない、やさしく敏感な人でした。話上手で、しっかり話を聞いてくれることを願っています。「ちょっと待っていてね」そんな言葉で彼のそばを離れる時少しさみしそうにこっちを見つめていました。でも大丈夫、すでに手を握る隙を与えないほど動き回っています。大声で笑い「さっきの約束はどうしたの?!」と、物忘れの激しい私を叱ってくれます。
K君は寒い森に初めてやってきて、裏広場からぬたばの大冒険につきあってくれました。彼はすでに自分の身を守ることを知っていたから、どんなにか不安だったらろうか?と思います。お茶目なキャラクターは男の子三人の中では、素敵な存在です。遊びは」マイペース・自分のしたいことを曲げない人です。でも繊細な言葉使いで、私達教師をはじめ皆にやさしい言葉をかけてくれます。きっと彼は時がきたらず~んと大人っぽくなっていくでしょう。

 紹介した年中のほかにもバンビーノのみんなとは、もうすでに「別れへと歩き始めていること」を私は感じているのです。だから、毎日が楽しいのかもしれません。

 さて、2009年度卒園児3名。夏までは2名でした。2人が3人になることは、20人が25人になるよりも、ひとりの影響力を頼もしく感じます。私達職員が6月から、2人から3人になった安心感に同じく、8月には「大安心」しました。3人なら、ハンドベルもできる!卒園式の呼びかけもできる!歌もしっかり歌える!
 ありがとう「夏の天使」・・・あなたはすでに大人に近い心と言葉を持ってやってきました。あなたを3歳から育ててみたかったけれど、学校社会に出す前の半年、あなたと森で遊べたことをうれしく思います。
 Fさん、正直言って長い時間、あなたがどんな年長さんになるか、どんな一年生になるのか分からなかった。初めの1年はあなたの「傍観」遊びのサポートと「防寒」の身支度を、あなたのペースに合わせてしていくことが私達の大きな役割で、その間の試行錯誤は、私達の教師としての基礎力を高めてくれました。本当にありがとう。あなたは、しっかりと話す、意志の強い子になりました。森を駆け上り、教室ではモンテッソーリ教具の小さい先生として存在している。Fujiこどもの家バンビーノの森の3年間の教育を網羅してきたあなたに何の不安があるでしょうか?
 Kさん、君は様々な技(いいわけ・反抗・泣きじゃくり)で私達と親御さんを試し続けました。ファスナーの角度・帽子の按配・手先が触れるもの・味が混ざること敏感を感じ取り、そのたびに君の気持ちをくみ取らなければならない。なぜなら、君はとても遠慮深くストレートには物事を言ってはくれなかったからです。君から私達は「上級の忍耐」を学んだ初めの2年間でした。
最後の一年は予想どおり、君は「リーダー」だった。「親分」だった。2週間ほど前に、そんな内容のことをきみと話していたら「リーダーって何?親分って何?」と聞き返された。その時私は背中が寒くました。「私のリーダー像や親分象をこの人に伝えていいのだろうか?彼の父や母こそ、それを彼に伝え、彼のDNAを信じる人ではないのだろうか?」そこで、ずるい私はその役目をご両親にお願いしてしまいました。心の片隅では、Kさんを一生応援できるご両親に少しだけ嫉妬を感じます。

 わが子の入・卒業式などでは、なんだかドジりはしないかと、はらはらすることばかりでも、いつの間にか、必死なわが子の顔に涙が浮かんでしまいます。しかし、私は今まで20年の間に教師という仕事で入・卒園式で号泣したことがありません。
気持ちは、すごく悲しい、すごく淋しい、森を歩いていると涙が浮かんでくる。何よりも、入学後、小さな体で大きなランドセルを背負って、笑って歩く姿を町で見かけると、嗚咽したくなるほど涙が出てきます。ピントがずれていると言えばそうかもしれません。ほんとに別れたと感じるのです。

それがなぜなのか?それに、気付かされる時がある日やってきました。

 息子①の小1終わりの時、お世話になった若い女の先生が移動することとなりました。こども達は泣いて泣いて、「行かないで!」と机に伏せて叫びました。その若い先生は「先生も、もちろん悲しい。けれどこれが先生のお仕事なのよ。」と小1の理解のレベルで心をこめて真実を話してくださいました。ああ・・そうなのだ・・・
卒園式を執り行うとき、私はこのこども達と家族の皆さんを送り出すことに夢中だったのでしょう。
でも、他の先生方、園関係者の皆さんにはそれぞれの思いを、自分の気持ちの動くままに表してくれることを望んでいます。
 親御さんには安心して今日の日を喜び、もし涙が自然と出てきたならば、喜ぶときに人は「泣く」という尊いことをこどもにまっすぐ伝えてください。

美しいものです。

私も徐々に歳をとってきています。(まだまだ、未熟者でもありますが)心の琴線が切れるかもしれませんね。

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コラム
「お客様(講師)とのふれあい」   2010/1/14  


 お時間ある時にのんびり読んでくださいね。
4月にも講師先生方のご紹介をいたしましたが、今回はこども達の活動の様子・先生方のお人柄を堀内の視点からお伝えしたいと思います。
その前に・・・・
「モンテッソーリ教育」と「シュタイナー教育」は幼児教育の世界では、相反するスタンツあるとよく言われます。臨済宗と浄土宗以上に、ある意味、イスラム教とキリスト教のように(すみませんこのような例えで・・・)根はきっと一緒なのに手法・方向性に違った立場にあります。
また、別の視点で、「七田式」と言う教育方法をご存知でしょうか?フラッシュカードでこどもが即時反応する様子が有名な教育方法です。早期の英語教育も、母国語の正しい(美しい)習得には妨げにならないか?・・・ネイティブに近い発音の獲得をしたい・・と、良い点・気になる点、多々あるとは思いながらも悩みますね。モンテッソーリについては今度また、ゆっくり教具や言葉掛け、手本の示し方など・・・ゆっくりお話しながら、皆さんに「お仕事(遊び)」する機会を持って行きたいと考えています。

「三つ子の魂百まで・・・・」この言葉の裏にはこども自身の意志よりも、大人の環境準備が大切であることが表されています。

 様々な「いい教育」を大切なこども達に与えたいと考えるのは当然のことです。ただ、この園が始まる時、モンテッソーリとシュタイナーを一緒に施すことに不安をおぼえたことは確かです。それは、私自身、そんなにグローバルな教師である自信がなかったためと、普通は「ありえない」選択をしている方向性を選択している方々の幼児教育全体への理解度がわからなかったこともあります。
ただ、小野先生と阪本先生は「堀内先生はモンテッソーリとシュタイナーが一緒に教育されることをどう考えますか?」とストレートに尋ねてくださいました。そのことで、先生方と私の教育観の同一性を感じ取ることが出来ました。そして小野先生は「こども達の日常(森とモンテッソーリ中心の生活)に、たまに色を添えるような形でかかわっていくことしかできない。」と話され、「この子たちが真の意味で自立する時(大人になった時)、自ら感じ、考え、決断し、行動できる根をつくっていきたい」という共通認識で「森」「モンテッソーリ」「シュタイナー」の融合は始まりました。
 先生方のこどもへの深い愛情とプロフェッショナルな教育姿勢は、古今東西・趣味趣向を問わず私の学びの機会であり、縁あってお預かりしているこども達を、ひと時ですが、この素敵な先生方と一緒に育てることのできる喜びになっているのが現在の状況です。私の立場(教育感)からの感想であることを心にとめて、読み進めていただきたいです。


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森野 五六先生  水彩画講師


  三色(赤・青・黄)の薄く水ときされた絵の具が、水で濡らしたまっ白な画用紙の上で混ざり合わせていきます。この「一期一会の色合いを感じる」事が水彩画の時間の基本です。
 その日の活動につながる雰囲気を、入口から醸し出してくるのが小野先生の尊敬すべき点です。「こんにちは」と言いながら、すでに時間はこども達にとって「感じる時間」に入っています。わらべ唄や絵本の導入を経て、物語(自分の内的イメージの世界)を混ざり合う色で表現していく。それは、「気持ちを発散すること」が何よりも大切で、出来栄えなどは、問題にならないものです。色が混ざり合うところを、その瞬間を目で見て感じればいいのです。色の名前すらあまり必要ではないでしょう。そして、友達が作った色を眺め合う、同じ作品は無いのです。それが「水彩画」時間なのです。
 小野先生は寡黙ですが、言葉使いの美しい方です。一緒の昼食もこども達の盛んなおしゃべりをそっと聞き、うなずいている様子が、違和感無くいつもの教室の雰囲気に自然になじんでいきます。特に甘えることもなく、自然に食後の活動に入っていけのは、こども達が小野先生をしっかりと「先生」として受け止め、「こどもに寄り添う」という点で私たち教師と同じスタンツであることが、こども達を安心させているのだと思います。こども達と一緒に折り紙を楽しみ、モンテッソーリ教具でこども達が遊んでいる様子を「・・・なるほど!」と横で感心した微笑みを浮かべて見ています。
男の先生でパワフル系ではなく、穏やか系で、接していただけるのは小学校・中学校通しても貴重な経験になるでしょう。それは、性を超えた人格尊重の種を捲いているようにも感じています。


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阪本和子先生 オイリュトミー講師 


 オイリュトミーとはどんなことをしているか、保護者の皆さんにうまく伝わらないのですが、阪本先生は参観やVTR撮影は「こどものために良くない。私自身もいい時間(精神状態)が作れない」とお断りになりました。できる限り皆さんにわかるようお話しをしたいと思っています。
 ピンクでサテンのドレスで登場する阪本先生は、トーンの高い美しい声をされています。教室は薄暗くし、こども達は上履きを脱いで円形に座って先生が現れるのを待っています。
まずはテニスボール大の羊毛球をつかって一人ずつ挨拶が始まります。みなの名前をしっかりと覚え、「一人一人と心をつなぐ挨拶」の始まりです。
「こずえさん、こんにちは♪」と節をつけあいさつしながら羊毛球を手渡し、こどもは「こんにちは♪」と羊毛球を返します。その返し具合で、今日のその子の精神バランスを読み取っているようです。臆病になっている人、はしゃぎたい人、イライラしている人・・・・私たち教師も朝の登園時の様子やそれまで(数日・数ヵ月)の様子、この挨拶の様子を踏まえ「今日はこの人にフォローが必要だ。」と判断した場合、近くに寄り添うようにします。それは、このオイリュトミーの時間が皆にとって穏やかでよい時間になるための配慮です。
 まず、阪本先生のアカペラによる今日のテーマ(季節配慮)の歌に合わせ、手をつないでゆっくりと円を作っていきます。足音はしないようにそっと歩く様子をこども達は真似しています。上履きを脱いで活動します。
 いつも、大地にそびえたつ木・空に向かって伸びる枝・育つ自然の心を動きで表現します。そして、阪本先生の語らいに合わせ、物語を動きで表現していきます。ぴょこぴょこ動く小動物、ころころ転がる球、芽を出す草木・・・etc
よく知っている物語がメインのテーマになることが多いのですが、体で表現することは(見る・聞く→感じる→動く)受け身で紙芝居を見ることとはまったく違います。また、繰り返しいつもの体操をするのとも違います。どちらかと言うと可塑性のある粘土の造形活動を全身でしているような、クリエイティブな時間です。だから・・・心も体もとても沢山使い、ある意味疲れます。心地よい疲れです。
 そして、1mほどの棒をもって表現をします。棒を落とさない繊細な手先の動きが要求されます。3歳児には大変なことです。棒は右から左にはねたり指先から肩へ転がったりします。そして最後に皆の棒を教室の中心に放射線状に集めて「太陽」を作り、オイリュトミーの時間が終わります。
 阪本先生も一緒に昼食をとっていただいています。穏やかで美しい先生の笑い声が食卓を和ませます。先生のこどもの観察眼は素晴らしく、ちょっとこどもの情緒に疑問を感じられると尋ねてくださいます。その日に限らず、こどもの成長の様子などお話して、止まることのないこども達の成長を共有できたことは、開園一年目の時、比較的ひとりで保育する機会の多かった私にとっては頼もしい存在で、多くの幼児に接していらした経験からの鋭い指摘は頭の下がることばかりでした。

 幼児教育の世界では、意欲はもちろん、年月を重ねたこども達の歴史(こどもから学んだこと)が大切であることを、二人の大先輩に示していただいたと感謝しています。


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小田柿 高嶺 先生  陶芸講師
 趣味の陶芸で多種の作品を作り、グループ展などに出展されています。陶芸の釉薬指導はご自宅に招いてくださり、行っていいただいています。
 小さな子と陶芸・・・・一見粘土工作のように楽しくできるのですが、焼きあがった時を予想したサポートは、やはり「この道の方(プロ)」でなければできない繊細な部分があります。
 作品の制作前に小田柿先生は朗々とした声で、こども達に陶芸の仕組み(泥が焼かれて硬くなること・色が違ってくること)を伝えてくださいます。こども達は冷たい柔らかい粘土を触れる瞬間、身震いのように驚いた反応を示します。柔らかい粘土とはいえ思うようになりません。悪戦苦闘の楽しい時間が流れます。終始にこやかに、こども達の手助けをしながら、プロの目線で作品の「取り上げ(完成)時」を計っています。そして、焼きあがりに割れないように、ところどころ、こどもたちの作品を手直ししてくださいます。それは、こどもの出した「あじ」を失わないよう、そっとわずかに亀裂を埋めていくのでした。

約二週間後、小田垣先生のお宅にて、年長さんは釉薬を施します。好きな色を選ばせていただけます。焼き上がりの色見本を作っておいてくださって、釉薬と素焼き、仕上がりの違いが少しでもこども達にわかりやすいようにしていただきました。そして、やさしい奥様と、ほおずき・しゅんめい菊が美しい庭で無邪気に遊ばせていただけるのです。
 私は若い頃、陶芸を年に一度行う私立幼稚園で働いていました。園児300名を超すマンモス園でしたので、粘土を配合し捏ねるのもひと仕事でした。まさに、「腰がいる仕事」です。小田柿先生が持って来てくださる粘土の軟らかさ・きめの細かさに驚き、先生が丹精込めて捏ねてくださったことを感じました。そして作品にひびを入れないようにゆっくりと乾かす作業(1~2週間)、一回目の素焼きに一晩、二回目の本焼きにまた一晩を費やすという、こども達の見えないところで多くの苦労をなさっていることに、心から感謝をしています。こども達にも話して聞かせますが、まだ幼いみなさんにはうまくイメージできないようですね。
年を重ね、小田柿先生も私たちも、だいぶこどものペースに慣れ、余裕ができましたので、すこしの時間一緒に椅子取りゲームをして遊ぶこともありました。私たちの園は核家族の方が多いので、年輩の方とこうしては、はしゃげることは嬉しいですね。 

陶芸作品は一生残るものです。ぜひ、わかるようになった頃にお子さんに先生の御苦労と唯一無二の焼き物を作ることの尊さのことを話してあげてください。



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そのほか運営委員さん等の「○○せんせい」

 他にも運営委員さんには、得意分野で教育に協力していただいています。
茂先生には、こども達も体力測定のペースをつかみ、お互いにこどもの育ちのたくましさ・確実さを共有することができています。医学・運動のプロとして他園ではできないサポートをしていただき、頼もしい限りです。
カヌーや味噌つくりもなかなかできない経験です。その中で運営委員で、昨年度はお子さんをあずけて頂きながら、運営の仕事に奉仕してくださった「聖美先生(Kさんのママではなく)」と呼ぶことにすっかり慣れたこども達です。これからが、さらに楽しみですね。


「○○先生」と呼ぶ壁・信頼・親離れ
 こども達にとって○○先生と呼びかけることは一つの道筋を整理してあげることになります。○○先生は誰からも同じスタンツで立つ人になります。シーソーの中心です。ですから、「新しいどなたか」が教育に加わる際(平等な立場)は「○○先生」と呼ぶようにしています。・・・・わかります・・・ちょっとこそばかゆいですね。(^_-)-☆
そして、運営委員の孝次先生はじめCLSの皆さんも森への道、声をかけてくださり、天気のことを話したり、見つけた動植物を「旬」で見せていただいています。まさにこの森でなければ、毎日歩かなければ、できない経験です。

 最後に・・・CLS職員で調理を担当してる小山さんも前出の意味合いで「小山先生」と呼ばしていただいています。朝、かけ合う言葉がこども達の背中を押し、さむさを吹き飛ばし、戻ってくる場所という安心感を生みだしてくださっています。

「ありがとうございます。」と伝える人が多いことは、宝物が多いということです。そして、一番の先生は「こども達」です。きらきら輝く毎日があるということに心から感謝です。


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コラム冬「こどもがこどもに伝えること」 2009/12/14  


 お時間ある時にのんびり読んでくださいね。

 クリスマス会が近づきます。楽しみですね。「生活発表会」と言うと、「練習」と連想していますが、午前は森にいき、午後は自由保育のバンビーノはのんびり「適当」(いいかげんではなく適度と読みとってほしいです)な練習です。こどものお仕事を中断しないように、タイミングを見ながら「やってみようか?」といった感じです。挨拶や歌、劇も日々の暮らしでの身のこなし、遊びから徐々にまとまっていくようにしています。その過程でこどもの主張や動きでさまざまに変わってきています。
もしかして当日、沢山のお客様に驚いてしまうかもしれません。ママから離れられないかもしれません。ですが、この日まで楽しんできたことが一番意味のあることだと思っています。それで充分だと、教師たちは年齢個性を考えた育ちを長い目で見ています。
その上にドキドキしながらも、皆さんに成果を披露できたらそれは「Special Excellent」ですね。たくさんの拍手をお送りください。



 新しい友達が増え、年齢幅も広がり、とても賑やかな日々が続いています。兄弟での園の生活をしている人もいます。でも、あまりそれが気になりません。なぜでしょう?きっとみんながマイペースだからでしょう。
年長さんは小さな・偉大な先生です。「かしてごらん、してあげる、まっていてあげて、しょうがないな~、」教師の方がハッとさせられる小さな友達へのいたわりが育っていました。


一日を楽しむ保育・子育て
 はじめのうち、こども達はオピニオンを教師に求めることが多くあります。でも教師はそのたびに「どうしようか?」と一拍置くことで、こども自身の「自分の気持ちを確認する。次を予想する。」力を養っています。教師は白黒つける存在・絶対的管理者ではありません。その立場を忘れると、昔懐かしい「古臭い先生」になってしまうと、私は考えています。
「自由保育」は待てるスタンツをとれる教師が必要です。そしてもう一つ「それは違うじゃない?!」とこどもの仕事を中断しないことです。サバをサメと言いきっても「ふ~ん???」・・・・「ではこれはなんて言うの?」「牙って何?」とこどもとのかかわりを楽しむ時間にしていきたいですね。
もちろんその場すぐでなくとも、たとえ翌日・翌年であっても、正しい知識を伝えていくことが本道です。でも、一日をあせらないで「楽しんで」行くことが母(父)子ともに楽しい子育てだと考えています。

 一つの例を挙げましょう。
数字や文字に関心を持ち始めたA君が12月のカレンダーを楽しそうに作り上げました。翌日、まだそのお仕事していない人にカレンダーを手渡していると、「もう一個したい!」とA君が言ってきました。あいにく予備がなかったので、「ごめんね。1月のカレンダーもうすぐ作れるようにするね。」と言ったら、「じゃあ13月ちょうだい!!」と言いました。13月を今「それは違うよ」と言う必要があるでしょうか?まだ4歳です。「13月」の発想をしたA君に「数の並び」の力が付いていることに感動しました。思わず抱きしめ、「くっくっく・・・・」と笑いをこらえ、「そうだね。カレンダー見てみようね」と今日は明日へとつなげ、A君には違った数字遊びへと誘うことが必要な「敏感期」であることをA君自身から気付かされました。そんな、後を追いかける育ちの援助が最適なのかも知れません。

 こども同士が、順番や園のきまりを指摘し合い、相手に約束を守ってほしいと言ったり、譲ったり、仲間に入れ合ったりします。それはお互いがいなければできない学びです。その様子、過程を教師は見守り(もちろんこども達には、適宜アドバイスします)家の人に伝えています。それは、微笑ましい成長の過程だから、家の人と共有したい気持ちからです。家に帰ってから「わがまま言ってはだめよ!みんなと仲良くね!」などとあまり言わないでくださいね。(#^.^#)

 リアルな空間のリアルな関わりからこども達は学ぶものです。
こども達が、森を毎日歩き、仲間と語り、好きな遊びをできるように、家庭はそのエネルギーを蓄える存在であって欲しいです。良く食べよく寝て、良く甘えさせてください。ハグハグ・チュチュできるのは、本当にこどもの人生80年のうちの10%はありません。

 個性をそれぞれが出してほしいから、制服もなく、縦割り混合、遊びのフィールドもこども次第、午後は何をしようか食事中に考える・・・・そんな保育をしています。まどろっこしいかもしれません。確かに教師も目配りが多く必要になり、「大きな家族」として6時間を過ごしています。先にかきましたように、大きな子が小さな子の「先生」になることや、小さな子が少しだけ大きな子を見て「私もやってみたい。できるよ!」と背伸びしていく様子がとてもかわいいです。
 完全で完璧な保育、そして子育ては誰にもできないのです
一緒に歩んでいけるように、保護者の皆さんからどんどん声をかけてくださいね。その際、こどもはよく聞いているもので、大人が考える以上に理解しています。

「不安」はこっそりお話ください。(*^^)v
「嬉しいこと」は大きな声でお話ください。(^○^)
「うまくいかない」事をあせらず、待って・良く見てください。悩むこども・意地を張るこども・工夫するこどもを「楽しんで」見守っていきましょう。
その一つ一つが、かけがえのない 軌跡(輝石)です。

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コラム秋
「こども達が大きく成長する後半をむかえるにあたって・・・・」
2009/10/14

 お時間ある時にのんびり読んでくださいね。

私がとても若いころ読んでいた本に「人との出会いは、円が一部分重なりぶつかりまた離れていくこと。」とあったのが印象に残っています。たくさんのこども達と親御さんが私の前をクルクルと通り過ぎて行きました。満足なことは何一つできなかったと思います。
繰り返し、同じことになってしまうかもしれないけれど、「今」を伝え、「将来」へのわずかなヒントになることを願い一人の幼児教育担当者として伝えていきたいです。(こどもの活動に余裕がある時だけですが・・・)
今は「森」「モンテッソーリ」と、このかわいいこどもたちが、私の羅針盤となっています。

 「森のようちえん」が始まったのは2007年春・生まれ月の早くはない年中さん5人と年少2人とのスタートでした。広場までの道のりの間に、何度も座り込む・水を何度も飲みたがる、教師が手を引き上げるようにしなければ足を動かさない。トンネルごっこ・珍しい草花の示唆などなど・・・・こどもとの駆け引きが続きました。広場までやっとこさ・・・の日々は体力的よりも気持ちの面で長く続き、こどもによってはそのまま卒園まで「頑張って」山を登り続けてくれた人もいました。
 さて、最近のこども達は、駆けのぼり、駆け下り、難なく休憩ポイントや、広場につきます。「まってくれ~!」と先行の教師が呼び止めることもあります。三歳児入園の二人もゆっくりですが「大変」「かったるい」「抱っこ」といった表情にはなりません。
こずえ先生とこの違いは何なのか?考えてみました。どの子も入園したばかりのころは「体力的」にフォローが必要です。山道に慣れてくると、以前のこども達がある意味卒園まで必要だった気持のフォローは、あまり必要ではありません。でも今考えると当初の年中さんはえ3月までは一番小さな年少さん、普通の教室活動の幼稚園生活の流れを変えるのと同時に、「自分で登る」(体力的・精神的)というのは大きな「河」を渡ることだったのかもしれません。本当に良く頑張りました。
 今は先輩たちが歩んだ道の上に、いい雰囲気が広がってきています。卒園児さんは3学期には、徒党の時代(グループ的に行動し遊びを広げる発達段階)の兆しを見せ始め、「もっと森の奥へ行ってみたい」「あそこはどんなになっているのか?」とフィールドを広げていってくれました。おかげで、先輩と同じく、今のバンビーノのこども達は裏山、裏広場も好きです。河口湖畔も、もちろん広場も好きです。こども達のフィールドは皆さんの知らない、崖や草むらも古木の沢山あるところもあります。パパ・ママ・・・毎日そこを歩いているこども達を、その事実を褒めてあげてくださいね。
その中で、いくつか約束もできました。休憩ポイントやコンクリートの下り坂はゆっくり進む、三人では手はつながないようにしよう(まん中の人が転んだ時手が付けないから)など・・・絶対のルールではありません。


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歩く学ぶ見えないこどもの世界は不安ですか?

 自由保育・見守りの自然保育を展開していくには、個性を尊重することと、こどもが大人との駆け引きをしたいときは、その子自身と教師が個別に多く関わっていくようにすることが必要に思います。
 みんながAの道を行きたいとき一人だけBがいいと言う、「かわいいわがまま」かもしれません。「みんなどうする?」も問いかけますが、あまりしつこくそのことを取り上げているとみんなのやる気がうせていきます。その(・・)一人(・・)の気持ちも「我慢しなさい」ではかわいそう・・・・「じゃあ、あなたはBで先生と行こう」もあり「明日みんなにBで行こうかって、さそってみよう」と状況で示唆します。(こずえ先生はとてもこの切り替えがうまく、感心し学ばせてもらうことが多いです。)これが集団です。
特に危険・安全が関わる時はよく話しますし、けして一人のわがままに振り回されない意思が大人として必要です。
「とりあえず・・・・」「いちおう・・・・・」「いったん・・・・」は大人の世界で使いがちな、現状受け入れ・現状変化要請の言葉ですが、3~6歳のこども達には???の暗号と考えていいでしょう。
こどもに対しては「ハイわかった。では○○にしようか?」「○○と○○のどちらにする?」現状受け入れ・現状変化要請が望ましいでしょう。年齢・理解の範囲で、後でもいいから納得してもらえるように話します。これは森に限らず集団での幼児の教育にたずさわる人ならば(有資格・無資格にかかわらず)常に直面し、それぞれのキャパシティに応じて展開していることでしょう。

※ただし、家では、いいのですよ・・・「どちらでも」!!
なぜなら、家族だから甘えられるし、逆に「こら~」って叱ってもそこまでの積み重ねがあるから、こどもとの関係はすぐに元通り(数分後)。
血は水よりも濃いのです。


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親だから、きちっと叱れるシーン・・・

 たとえばもう年長位になって、「あなたのこと嫌い!!」と友達に面と向かって言っている人がいたら、「どうしてなの?何で?」って聞く前「そんなこと言われて気持ちいい人はいません」と「言ってはいけません」ではなく、その場の感じた状況をストレートに話すといいと思います。 そのあとになぜそう思ったか。嫌な思いをした理由を聞いてあげましょうね。じゃあ直接「○○しないで」「○○いっしょにしよう」とわかる段階でのフォローをしましょうね。さらっとです。積み重ねが大切です。
 時にはわがままに見えるかもしれませんが、大人との関わりを多くしたい。大人の反応を見たいから、「いけないこと」とわかっていてしているケースも多いと思います。年齢の高い子はそう感じられる時もあるでしょう。それは、その子が大人と関わるべき「敏感期」と思いましょう。
 親としての前に、一人の人としてどう感じたか、話すことでいいのではないでしょうか?それをこどもは待っています。
 それと、こども社会の中で「○○ちゃんと仲良くしてあげなさい」と言葉で言われ、実際の行動に移すのは少し難しいことです。
 教師は個性や得意分野がわかっているので、「どう?○○君も誘ってみよう」「○○さんに聞いてみよう」と「つなぎ」をします。でも家庭で「○○ちゃんと仲良くしてあげなさい」と言ってくださる気持ちはよくわかりますがこどもは「仲良くする」という実行動の形式が「椅子を運ぶ」のように具体化されていないので「うん。わかった」と言っても実際には???で妙に世話を焼いてしまったり、気まぐれに遊びに誘い、「仲間に入ってくれない」と違った方向で無理じいをしてしまいます。それもかわいい駆け引きです。教師は双方の気持ちのフォローをしています。
 「困っているようなら助けてあげようね。」が年長さんには何とか理解できる範囲かもしれません。たとえば、「今日○○君とこんなことしたの」「そう・・・よかったね(残念だったね)」と、3歳半くらいから少し園でのことを話し始めた時からこどものつぶやきにそっと答えて続けてあげてくださいね。家事の片手間に、運転しながら、こどもがつぶやきたいときにつぶやかせてあげてください。「今日、ようちえんドウだった?」は、なかなかこどもには答えようが見つかりません。
もしも親として不安が生まれたら(もしかして遊びに入れない?友達に意地悪している?)はそっと教師に尋ねてくださいね。基本は事実をそのままお話し、一緒に考えることを親御さんとしていきたい(生きたい・育ち合いたい)と考えています。


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材料たち

 料理の日・むすびの日の前日には材料達が並びます(素材によっては当日です)もちろん触ってOK・・・もし使えなくしてしまっても大人の機転で補充可能ですし・・・・
素材達をのんびり楽しむことは、触・臭・視覚の育成にとって有効です。
そして翌日まで想像し、ついに味覚を使う。毎日こどもたちを預けてくださる保護者の皆さんの理解の上で連続した遊びが展開できるのです。
先日はTさんにカボスをいただき「味覚壺遊び」を急遽展開しました。酸味・甘味・塩味を薄めた液体を舌で「感じる」遊びです。言葉は後からです・・・いらない場合も多いです。成長とともに甘い・酸っぱい・苦い・しょっぱいなどを暮らしと実体験で必ず得ていきます。感性を開くのに、必要ない先入観を先に親や周りの人がもたらすことが、現代は特に多く感じ、こどもの実体験の妨げになってしまっている気がします。

 先日のこども達には「いま一つの味付けだ」と努力点をいただいた「おはぎ」ですが、小豆を大きなボールに入れ一日半その感触・色つや・一本筋があるある様子・手から落ちるときの音を楽しみました。これは出来合いのおはぎでは、「味わえない」ものです。私は、その時見学にいらした帝京大の神部教授と「小さな子にはこれが、モンテッソーリであり食育なのですね。」と話しました。そして、もちろんこどもが衛生的になんとか自分の分を作れるように、ラップに煮たあん、その上に餅ごめを丸く載せて「小さなおはぎ」ができました。
 十五夜団子は前回おやつの反省から、思いっきり柔らかめにこね、じっくりゆでたので今回は満足点をもらえました。一緒に作っていると、連帯感が生まれ、おいしいおやつをいただきながら次は何を作ろうかと、話は未来に向かいます。「食育」は一時的なイベントではなくこうした連続性があることがいいと思います。何より家庭こそ、その連続性(一日三食・何十年も)そのものですね。のんびり「食」で育ちましょう
お味見係をこどもにしてもらうと食が伸び、面白い感想を伝えてくれますよ。

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ママ・モンテ講座を終えて
 いま一つ不完全燃焼な感じが私の中に残っています。感覚教材の説明で終わってしまいました。でも、まあ・・・それぞれのお子さんの育ちをみながら、教師にドンドン尋ねてくださいね。また、ゆっくり機会を持ちたいですね。
こどもは作品として残るものよりも多くの「社会性」「感性」「順応性」を集団の中で学んでいます。以下参考に、「ようちえん」過ごしているこども達を受け止め沢山褒めてあげてください。

モンテッソーリ教育・モンテッソーリメソッド・早期教育に思われがちかな?
私が思うモンテッソーリ教育はもっと身近で子育てのんびりスタイルです。
①この子凝り性だな。②この子なんでも手を出して横取りして困るわ。③何でこんなにひっこみじあんなの。
・・・・・いずれのタイプもモンテッソーリ教育の視点から見ると、素晴らしき「才能」なのです。
①はもちろん同じことを繰り返しているようでも、変化をしている。満足感を十分に味わっている。職人肌のこどもです。
②は好奇心旺盛な教師の手本を待ちきれずに取り組み、失敗しながらも試行錯誤を繰り返すアクティブなこどもです。
③はよく見ている(こどもによっては半年くらい傍観的に観察し心で遊んでいる人もいます)こどもです。このタイプは実に美しく伸びる時期を迎え、丁寧な「お仕事」ぶりに感心することが多いです。

それぞれ声のかけ方が違いますし、①②③に当てはまらないタイプもいます。
「なるほど」という言葉がとてもこども達の遊びにマッチします。
 じーっと見ている子にも、同じ方をみて「なるほど」と思い、そっと呟きます。
 同じことを繰り返しているこどものそばで「なるほど」と納得します。
 なんだかこれはまずいでしょう!?といった遊びかをしているこどもの動きをみながら「なるほど???」と思い、
 彼が自分の迷いを訴えたり、できないとムキになっている時に、そして修正してるい姿を見て大きく「なるほど!」と発します。

 いずれにしろ1日単位ではなくとも、できる瞬間がやってきます。
その時、「すごい!みんな見て!・・・・ほ~ら・・・」とその子に注目を集めます。
すると、一つの空間の中で時間を共有してきたこども達から次々と「わ~初めてだね!」「すっげ~」など褒め言葉が飛んできます。それは、周りのこどもの一緒に教具と遊んでいたのと同じことでもあります。そして、実は、皆はその子の個性も行動も教師と同じくらい敏感に感じていたのです。たまに言葉を多く知らない年齢の子や、拙い作品の出来栄えをストレートに口にしてしまう子、「私はもっとできる」と主張してしまう子もいます。この時は教師が感じこと、努力した時間・工夫・昨日よりも上達している様子を話し、それぞれのこどもの気持ちの整理を手伝います。
こんなことを繰り返すうち、年齢の高い子は小さな子の小さな(偉大な)先生になっていきます。


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何も無くてもできる幸せなこと

 バンビーノには運営委員さん・講師の先生はじめ多くの方が力を貸してくれたり、訪問して一緒に森や教室での時間を過ごしてくれたります。
その方とさよならする時、「何も持っていなくてもできる、いいこと(施し)」をして感謝の気持ちを伝えます。
ニコニコしてあげる・・・ほほ笑みはそれだけでうれしいものです。
やさしい言葉をかける・・風邪に気をつけてね。
今日は楽しかったです。
とおりいっぺん「ありがとう」から一歩、歩み出ます。
祈ってあげる・・・あしたもお仕事がんばれますように。
無事に次のお仕事まで行けますように。
無言で願います。

これは、どれも私たちが親として常にこどもに施すべき基本ではないでしょうか?もちろん皆さんが大切なお子さんに普通にしていることですね。
ちょっと疲れたときイライラしていしまった時、この「三施」を思い出してみてください
もちろんあなたのパートナー(夫婦間)にも・・・・(私も日々反省・実践・反省の繰り返しです。うまくいくのは白髪だらけの頃かもしれません)
こども達は無意識に①の施しを私たち親にいつもしてくれていることに感謝しましょう。それだけで「親」をやっている甲斐がありますね!

※私は強い宗教意識はありません。

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コラム:「家族を考える」  2009/09/18
家族、大切にしていきたいつながる命。
「生き直しの楽しさ」を感じることできる育児・育自


1. 名前の不思議・・・・バンビーノつぶやき
 私はこどもが園の生活に慣れてくると「あなたのお母(父)さんはなんていう名前?」とたずねます。ほとんど「~~~??ママ!」と答えることが多いです。「ではお父さんはママをなんて呼ぶの?」と聞くと、しばらく考え「モモコっていう!」「じゃあきっとヤマダモモコさんだね。ヤマダタカシさんのお母さんだものね。」と話がつながり更に、「うちのトミちゃん」「まーちゃん」と「お母さん・ママ」に限らず呼び方の論議が始まり楽しいです。そして「ヤマダタカシ」「ヤマダ」というグループに「タカシ・モモコ・タロウ」がいるのだと姓と名に気付き始めます。今は社会も柔軟になり姓にこだわりがなくなっているのも、こども達は柔軟に受け入れています。
ただ、「ママ」に名前があることを改めてこどもは知った驚きはシナプスがつながる瞬間のきらめきを瞳に現し多く、これも核家族化の一つのあらわれかな?とも思いました。

2. 新しい仲間・・・・息子のつぶやき
 我が家は13歳の息子①と10歳の息子②がいます。
息子①が3歳になった頃、「お母さんと結婚する」と嬉しいことを言ってくれました。「そうだね・・・でもお母さんお父さんと結婚しているんだ。」「・・・・(涙目)」「そして君が仲間に入ってくれたんだよ」と話したら、「え~僕あとから仲間に入ったの?」と涙目以上のショックを受けていました。
約3年後、息子②も同じでした。その日は息子①から「フミヤは後から仲間に入ったんだよ」といわれ「え~~!?僕後から仲間にはいったの?」とすさまじい衝撃でした。成長すると家族ができていく様子がすぐに理解できるのですが、まさにこどもの「自己中心性」を発揮したロジカルの展開が面白く、尊きこどもの成長を感じました。

3. 主人の生き直し
 主人は6歳の七五三の祝いの数日前に父親を急病で亡くしました。
搬送される救急車の中ですでに息絶えたといくことです。幼かった主人にはショックだったという記憶はあまりないそうです。そして、父親と過ごした思い出もあまりありません。
 主人は今、彼自身が「父」になり、失った「父との時間」を生き直しているようにみえます。自動車にのって家族で出かけること(ちょっとした買い物です)、気まぐれなキャッチボール、電車・船・飛行機を見に行こう連れ出してくれること、「歯磨きしろ・靴下をはけ・つめを切るぞ」と身の回りのこまごまとしたことに口をだします。普通のことです。しかし主人には幼いころ「父とはなかった」できなかったことばかりです。主人の父が亡くなった時、主人は6歳、その兄が9歳でした。だから、息子②が6歳、息子①が9歳になった時、主人は「健康に良いこと」を次々と試し続けていました。その壁(?)を超えたとき「親父より生きた!」と私には見えなかった荷物を下ろしたようでした。

4. 私の生き直し・死を見届ける
 私の父は60歳でまさに寿命を終えるように逝ってしました。私はちょうど息子①がお腹にいて、母親は寝たきりの祖母を看ながらの父の看病だったので、私が昼間は病院、夜は祖母と実家で休むようにしました。おかげで短い親孝行(?)でしたが最後の2か月を毎日病室で過ごすことができました。
 何も食べてはいけない父がある日、隣でさっぱりしたシャーベットを食べている私(妊娠5カ月くらいでした)に「一口くれ・・・」と弱々しく言うので、いけないと思いつつ一口食べさせてしまいました。「あ~うまい」と満足げに微笑みました。・・・・・数日後「この間のシャーベットうまかった」というのが私の覚えている父の最後の言葉です。間もなく、いつもの朝が始まったと思っていたら、父は苦悶の時間を半日過ごし、家族と、自分の兄弟に見守られながら、向こう岸へ行ってしまいました。大声で呼び戻そうとする父の弟(叔父)を皆がもう「呼んであげないでくれ、逝かせてあげてくれ」となだめていました。主人とは対照的な「父との別れ」でした。
 今思うことは、妊娠していたから、会社に行くこともなく最後の2か月に「父との時間」をたくさん持てたことは、お腹で息すくすく育ってくれた息子①と、寝たきりではあったけれどその時まで一緒にがんばってくれた祖母に、そして昼は祖母の介護、夜は父の付き添いに「その時すべて」を注いだ母のおかげだと感謝しています。
 我が家の息子②は、社交的な性格・繊細な感性(奇妙なファッション?)四角い頭に短い首、厚い肩の線が私の父によく似ています。先日の十三回忌にブレザーをきて一人で焼香する後ろ姿に、家族はぞっとしました。そして寺の住職のお言葉の中に「今まさにそこに『真ちゃん』がいると感じる後ろ姿だった」と一瞬の皆の共感を言葉にしました。私は今「母」として、「幼き父」との時間を生き直しているのだと感じる時があります。難しく言うとこれが輪廻かもしれませんね。



5. 伝えられる「自分」という存在・・・遠くの祖父母・近くの祖父母
 命日の近く、盆・彼岸には墓参りなどしながら「知らないじいじ」の話を息子達によくします。どんなに遠くて(向こう岸でも)も命のつながりを感じてほしいと思います。皆さんの多くは我が家と同じいわゆる核家族ですね。遠く離れた家族に「タカシが、この小さな手が、お山を毎日登っているのか・・・」と感じてもらえると嬉しいですし、こども達にも、「きっとおじいさん・おばあさんがこの手形に自分の手合わせてくれるよ」と話しながら作りました。


6. 森はつながりを目の前に見せている・・
 生は死のために、死は生へのバトンタッチ
 私たちはつながって生きています。季節の変化で変わっていく草木も、生まれては鳴き、飛べなくなっている蝉も、ありに食べられるミミズも・・・・腐った木はキノコたちのいい住処になる。去年と同じところに同じ花が咲き、ドングリが去年は少なかったけれど今年は沢山落ちている。自分にはどうにもならないことばかりです。でもその中に身を任せ暮らしていくことは、こども(3~6歳)にしては長いスパンで楽しむことを体で覚えています。「生と死」を改めて取り上げて「かわいそうか?」「どちら(誰か)が悪いか?」と言葉で教える以上にうっかりケースに入れたままにしたミミズの悲惨な姿・悪臭が生のミミズ・死のミミズを教えてくれています。

7. 彼岸と敬老の日・・・・・今を生きる
 お父さんお母さん、まずは自分が「この素敵なこども」をこの世に送り出したことを自分自身で褒めましょう!そして、命がつながっていることを確かめながら、こどもと過ごせる時間(これは長い短いではありません)を楽しみましょう。それはきっと皆さんの親御さん(おじいさん・おばあさん)が一番望んでいることでしょう。そして私たちもこども達が「親」になる時できればそうあってほしいと思うでしょう。ぐるぐると長いスパンで廻るのです。・・・・だからこそ自然の一部としての自覚をもった「大人」になっていきましょう。
 ECOだとか、自然保護とかもちろん大切ですが、自分を育んでくれた家族(祖父母・今の家族)を大切にするということがその自覚の第一歩ではないでしょうか?
そして、保護者の皆さんが幼少期を思い出したり、今の自分を楽しんだりするために、「身近な自然に足を踏み出す」ことが、私の大きな願いです。虫が苦手でも、木漏れ日のきらめきはすてきでしょう?雨が降り一瞬外に出るのをためらうでしょう?こどものわがままに振り回されて一瞬われを失っても、ちょっと時間がたつと笑って思い出せるでしょう?それが当り前です。そんな自分を受け入れて「今日はいいや・・・明日はどんなこと起こるかな?」という視線が「受け入れる」「受容する」「見守る」保育育児につながります。

 ともあれ・・・・今日は初めて「おはぎ」作りです。おいしいことが一番ですね!!作るのも楽しみです!お家で感想を聞いてみてくださいね。私自身も初めてなので・・・・・・やや・・・・自信ないのですが・・・・
 我が家では、息子②は大のあんこ好きなので、いつも実母・義母が沢山作って持ってきてくれます。二人はこのとき張り切りすぎます。

 小豆の赤には邪気を払う力があるといわれ、江戸時代頃から神仏のお供えになっていたのが、彼岸(あの世とこ3の世が近ずく)のときに供えたりいただいたりするようになったそうです。秋は実りの時でもありますしね。そして、小豆も米も有効な保存食、きっといつでもご先祖様への最高のもてなしでもあったでしょうね。ちなみに春彼岸は「ぼたもち」です。



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ポポロこと・・・ 堀内治美

 実は今も子育てに奮闘中です。こどもが巣立つまで年齢なりの悩みが波のように寄せては返す毎日です。私はけして「いい母親」ではないと思います。けれど、それでいいと、自分を受け容れることから始まり、こうして教師やボランティアをしています。未熟者だから、皆さんの笑顔が、こどもたちのはしゃぎ声が、欲しいのですね。

 できることを通じて、どんなスタンツの子育ても応援していきたいです。・・・私が動ける限り・話せる限り・書ける限り・・・・・欲張りですね。


 今日を「まあまあだったな・・・お休み・・・ありがと・・・Zzzz」と一日を終えることと、人間関係・金銭関係・をきれい(?)に過ごせれば、最高の人生だと思います。



堀内 治美

略歴
昭和61年3月 県立吉田高等学校 卒業
昭和62年3月 県立女子短期大学 幼児教育課 卒業

昭和62年 学校法人月江寺学園 月江寺幼稚園にて教職につく。結婚・出産を経て、平成13年 富士モンテッソーリスクールに再就職。モンテッソーリ教育を学びながら、保育士資格を取得。
平成19年4月 Fujiこどもの家バンビーノの森の設立に参加。現在はFujiこどもの家バンビーノの森で教師をしながら富士河口湖町・生涯学習課の子育て支援活動・障害児子育てサークルの設立・ボランティア活動を行なっている。


昭和62年3月 幼稚園教諭普通二級免許 取得(昭六一幼二普 第49号)
平成6年12月 実用英語検定二級 取得(2015187 3106-2079709)
平成13年10月 保育士資格 取得
平成15年3月 京都モンテッソーリ教師養成コース 基礎課程 修了(第1097号)
平成15年11月 山梨県保育士登録(山梨県-002210)


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